歴史部通信:7月18日号
- 順大 古川
- 7月18日
- 読了時間: 6分
【次週(7月20日~7月23日)の予定:日本史】
月:「月曜日_05.武家社会の成長」下剋上の風潮と国一揆~
火:「火曜日_10.2つの世界大戦とアジア」原敬内閣と政党内閣の定着~
水:「水曜日_09.近代国家の発展」新政府の基本方針と組織整備~
木:「木曜日_02.律令国家の形成」天平の美術~
※次のお休みは7月27日(月)~7月30日(木)です※
個別授業(探究コース・テスト対策コース)の予約方法が変わりました。
※ストアカは上記のリンクからアクセスしないと割引になりませんので、ご注意ください。
【質問調査結果】
Q:「建武の中興」はいつから、どうして「建武の新政」と呼ばれるようになったのか。
「中興」という語の意味は「いったん衰えた物事を中頃に再び盛んにすること」です。つまり、ものごとを良くしたという意味や評価が含まれます。
それに対して、「新政」は「新しい政治」なので、その政治がものごとを良くしたか悪くしたのかという評価とは関係ありません。
第二次世界大戦敗戦以前は、天皇の政治を復活させたという意味で後醍醐天皇の政治にはプラスの評価がされており、「建武の中興」と呼ぶことが多かったようです。
第二次世界大戦終戦後は、後醍醐天皇の政治に対する評価に関わらず使える言葉として、「建武の新政」と呼ぶことが増えました。
なお、第二次世界大戦以前にも「建武の新政」(山路愛山『足利尊氏』※未確認)「建武の中興の新政」(田中義成『南北朝時代史』確認済)といった言葉が用いられることもあったようです。「建武の新政」の初出は分かりませんでした。
Q:第一次護憲運動のときに、最初に「宮中と府中の別」という論点で桂太郎内閣を批判しだした人はだれですか?
1912年12月17日、桂太郎に組閣の大命が下されます。
すると、その2日後には第一回憲政擁護大会が開催されるなど、実質的には政界の引退を表す宮中入りからわずか半年で府中(政界)へ復帰することに対して、「宮中と府中の別」をめぐる非難の声があっという間に広がりました。
しかし、組閣の大命以前から、「宮中と府中の別」という論点で桂太郎に助言をした人がいたようです。時間を少しさかのぼってみましょう。
1912年7月に明治天皇が崩御して30日に大正天皇が践祚すると、8月13日に桂太郎は内大臣兼侍従長に就任しました。
内大臣は天皇の玉璽を管理して、宮中顧問官の議事を総括して、天皇への請願を処理するという地味な仕事で、政界を引退した人がする仕事です。
ところが、桂が内大臣に就任した8月13日には、西園寺公望首相に対して「宮中府中宜しく協力相補し……」の勅語が出されています。山本四郎は、この勅語を「明治一八年の管制いらい(ママ)種々戒められた宮中・府中の別を破る勅語」(山本四郎「第二次西園寺内閣の崩壊」)と評しています。
このような状況に対して、すぐに内外から批判が出たようです。
内からは、曾我祐準(そがすけのり)という人が「貴族院の政友代表として桂を訪問、宮中・府中の別を乱すことのないよう忠告」(山本四郎・同論文)しました。
外からは、徳富蘇峰などの多くの言論人やほとんどの新聞が、宮中・府中の別を乱すなどの論点で批判しました。
というわけで、内大臣から総理大臣になるときではなく、内大臣になったときに既に宮中・府中の別を乱すだろうという批判が出ていたことが分かりました。
少し古い論文なので、8月13日の勅語の評価など、最近の学界の見解は異なるかもしれません。
Q:日米修好通商条約の勅許を得るために上洛した堀田正睦が朝廷に説明した「世界情勢」の内容は?
このときの説明の内容は、なんと石に刻まれて残されていました!
それを、『文明公追遠碑(ぶんめいこうついえんひ)』といいます。
文明公とは堀田正睦のことで、明治19年(1886年)に佐倉藩の旧藩士である平野重久(上洛に随行した人物)らによって、現在の千葉県佐倉市に建立されました。
漢文で刻まれた原文が掲載されている資料を見つけられませんでしたが、佐倉市が読み下しと意訳文を公表しています。
それでも、長えーなー、と思っていたら、佐倉市が別のページで要約もしてくれていました。
ありがとう、佐倉市!
引用しておきます。
今しがた万国は勢力を張りあい、皇帝と称し、王を侮り、なお中国の春秋戦国時代、我が国の室町時代末、戦国時代のようです。どうにかして、国々を一つに合わせなければなりません。すなわち兄弟は、離れれば敵として脅かし、喜びを分かち合えば調和し、怒れば粥の煮え立つごとく乱れ騒ぎます。世の中が治まること、乱れることに大きく関わっているのです。また、一国が一方に留まることはできません。それ故に、離れれば戦わざるを得ず、一つになれば和合せざるを得ないのです。未だこの離合と和戦の外に立ち一人で自らを尊いとする者国はありません。
清国は自分の国だけが他の誰よりも尊いとしてきましたが、近日この国が敗れた様を見るべきです。我が国は四方を海に囲まれ、まさに国々の行きかう船の要衝にあたります。これを拒んで退け、往来や停泊を許可しないのであれば、万国は互いに我が国を訴え、争い、敵とする者が全て集まります。その災いは小々のことではないでしょう。
君主は万民を愛し、世界中の人々はすべて兄弟です。兄弟は互いに信頼して動けば大きな幸いをもたらし、互いに憎み合えば必ず災いとなります。今、世界中の国々の道徳と憎しみの力は等しく互いに越えることはありません。このため、君主たるものは、自らの見識によらず、誰に対しても平等に礼儀を尽くし、使者を相互に遣わした数、商人の往来の便、役人を駐在させ適切に職に励むようにし、長年にわたりこれを行い、権力はすでに人々の及ぶところとなり、人々を集めて善をなし、これが積もって大きく広くして満ちていけば、すなわち世界中の国々が多く集まり一つとなることは難しくないでしょう。陛下が自分だけが尊いという心を持てば、災いと失敗は清国のようになります。兄弟が互いに頼ることを手本とすれば、その効果・功績は先に述べたとおりです。そのようなときは、今日の親睦交誼はどうして世界の混乱を一つにし、万国の盟主となる基礎ではないことを知らないでしょうか、そうではないでしょう。
かつ、我が国は、建国以来、皇統一系であり、彼の国のように朝には秦、夕には漢と変遷極まりなくこのようではありません。そして土地は肥沃で貨幣は豊かに増え、世間は情に厚く、人々は忠実で義に重く、上を敬い天の心の向かうところを知ることができます。陛下、どうして疑って決しないことがありましょうか。どうして顧みないことがありましょうか。
(引用 佐倉市)
とのことです。
以下のページにいろいろと説明が書いてありますので、ぜひチェックしてみてください。

コメント