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【核兵器の歴史②】水爆・ゴジラ・原発【青木裕司と中島浩二の世界史ch:0056】



世界史参考書の超ロングセラー『青木裕司 世界史B講義の実況中継』シリーズの青木裕司先生と、福岡を中心に活動する人気タレント中島浩二さんの青木裕司と中島浩二の世界史ch」の文章版です(許可を得ています)。

(前回の記事「【核兵器の歴史】マンハッタン計画そして広島・長崎」(未公開))


中島:

歴史を紐解けば未来が見える。大人の世界史チャンネル中島浩二です。そして河合塾のカリスマ講師、世界史の青木先生です。よろしくお願いします。

核という話で1回目は広島、長崎、日本に落とされた原子爆弾というところまで話をしました。そこから人類がどうやって核というものを取り扱い、向き合ってきたかという話ですね。


青木:

そうですね。1945年にアメリカがまず原子爆弾の開発に成功。するとアメリカと対立していたソビエト連邦も1949年に原子爆弾を保有するわけですね。


中島:

あの威力を見たら「これはうちに落とされたらやばいな」って世界中が思ったわけですね。


青木:

思ったんですね。結局ソ連はどうしたかというとスパイを使って情報をかき集めるんです。これで有名なローゼンバーグ事件というのが起きるんです。ローゼンバーグ夫妻というアメリカ人がソ連のためにスパイ活動をやったというので2人とも死刑です。

中島:

実際にやっていたということですか?


青木:

近年の研究では実際にスパイだったという話みたいですね。冤罪であったという議論が長らくあったんですけども、近年の研究はどちらかというと実際にスパイであったと。


中島:

でも2人だけでやれるようなことではないんですよね。


青木:

協力者が何人もいるんです。そのようにして2つの超大国が核兵器を持ってしまった。下手すれば使うぞというので1950年、ソ連の原爆保有の翌年に核兵器反対の国際的な大会が初めて開かれる。これがストックホルムですね。

スウェーデンの首都ストックホルムで反核の運動をやっている人、そういう声を上げようとしてる人たちが集まって、ストックホルム・アピールというのを出すんです。

そしてそれから4年後の1954年、またしても日本人が核兵器の被害者になってしまう


中島:

原爆よりももっと威力がすごいだろうというふうに言われていたのが水爆。この水爆の実験をアメリカがビキニ環礁というところでやっている。そのビキニ環礁の、立ち入るなよというところではなかったんですよね。


青木:

そうです。危険区域の外だったんですよね。


中島:

第五福竜丸という漁船、マグロを獲っていた漁船なんですけれども、それが被曝してしまうと。

青木:

さっき言ったように危険区域の外だった。そしたら操業していた漁船の人たちの言葉だと、水平線の向こうがピカッと光って、しばらくして白いものが降ってきた。今から考えると水爆実験によって巻き上げられた、しかも放射性物質を帯びたサンゴ礁が欠片となってパーッと降ってくるわけです。みんな赤道近いのに雪が降ってきた。そのうちに髪の毛が抜け始めて。当時の日本人、やっぱり広島や長崎で被害に遭った人たち、原子爆弾の被害に遭った人たちがどうなったか知ってるんですよね。髪の毛が抜けていくというのは急性の放射線障害。みんながそれでびっくりして、急いで静岡県の焼津港に戻って調べたらガイガーカウンターという放射能を調べる機械ですけど、針が振り切れるほどみんなが放射性物質を浴びていた。

結局直接的な被害で2人亡くなるんです。最初に亡くなったのか久保山愛吉さんというかたで、さっきも申し上げたように、広島、長崎に続いてまたしても日本人が。

中島:

そうなんですよ、被害を被っちゃったという。本当に残念ですね。


青木:

するとこれがきっかけになって日本を出発点として世界的な反核運動が始まっていくんです。それを始めたのが杉並区のおばちゃんたちだったんですよ。婦人たちが立ち上がって、小さな声から署名活動を始めるわけです。1年で3500万集まったんです。


中島:

僕思うんですけど、ああいうときの女性のものすごいパワーを、ワーッと発揮するじゃないですか。


青木:

男よりね、あんまり男女って現代はあるけど。


中島:

こういう時代なのでそういうのは相応しくないというのは重々わかったうえで話しますけれども、公害に対してとかも、子どもがいる女性の子どもを守らなきゃというパワーとか。


青木:

より生物的に、本質的に。


中島:

これはやばいって。


青木:

男みたいに物怖じしないんですよ。

中島:

これは賞賛ですよ。


青木:

本当本当。


中島:

すばらしい力を発揮しますよね。


青木:

グレタ・トゥーンベリちゃんが、あの子も女の子ですよね。偶然じゃないような気がするんですけどね。そのおばちゃんたちの運動が、小さな声から始まってめちゃくちゃ大きな運動になっていくわけですね。翌年の1955年に原水爆禁止世界大会が広島の地で行われる。ついでに言っちゃうと第五福竜丸事件が起こった1954年、昭和29年に封切られた有名な映画があって、これがゴジラなんですね。

中島:

いわゆる原子力とか公害とかが混ざり合ってこんなものができたよという、だから悲しいんですよね。


青木:

そうですね。初代のゴジラっておっしゃったように、ものすごく核の恐怖というのがあったので、いろんなゴジラがあるけども、1作目が一番迫力があるんですよね。怖いですね。


中島:

怖いというものなんですよ。先生は特にその世代ですから。僕は最初に見たゴジラの映画は「ゴジラ対メカゴジラ」だった。


青木:

かなりポップな時代のね。

中島:

ほらディスられましたよ。


青木:

あの頃の野球の打線で、破壊力のある野球の打線ね、たとえば水爆打線とか、ミサイル打線とか、今から考えるとコンプライアンス的に。


中島:

もう全然、でもそういうふうな言葉はわりと普通に使っていたんですよね。


青木:

とにかくそれで世界的な運動が日本を発信地として始まっていく。すると原水爆禁止世界大会が開かれた同じ年にアインシュタインと有名なイギリスの哲学者だったラッセルという人が、ラッセル・アインシュタイン宣言、世界的に有名な科学者たちが声を上げるわけですね。その署名人が日本人で最初にノーベル賞を獲った湯川秀樹先生。湯川先生も署名されてるんです。

中島:

アインシュタイン博士って相当な自分の反省というか、あったのかというふうに思うんですけど。


青木:

これはオッペンハイマー、前回申し上げましたアメリカの原爆の開発の立役者ですね。オッペンハイマーも実際に爆発したものを見て「とんでもないものを俺は作ってしまった」というので反核運動をやるんです。ソ連の水爆の父と言われるサハロフ博士、彼も平和運動をやっていきますからね。自分が作ったものによってものすごいリスクができてしまった、それに対する忸怩たる思いというのがね。

中島:

やっぱり科学者の人たちは大なり小なり皆さん持ってらっしゃったんじゃないかなと思うんですけどね。


青木:

そうなんですよ、結局ラッセルとアインシュタインが声を最初に上げて、2年後の1957年にカナダのパグウォッシュという小さな町ですけど、ここに反核の科学者が集まってたパグウォッシュ会議を開くわけです。この会議は、名前はパグウォッシュ会議なんだけども、世界の至るところで会議を続けていって反核を訴えると。広島でこれまで通算3回、長崎でも数年前に1回やられたんですよね(訂正:広島では1995年と2005年の2回開催されました)。20年ちょっと前にパグウォッシュ会議自身がノーベル平和賞を獲る。こうして50年代に核兵器を使わせないような国際的な世論というのがどんどん盛り上がる。

一方で50年代と言いますといわゆる原子力の平和利用、こういったものも訴えられるようになるわけですね。石油石炭はいずれ枯渇するだろう、じゃあ第3のエネルギー源として原子力を使えるんじゃないか。実際に原子力発電所が作られていくわけです。日本にも小さな原子力ですけども、その母体みたいなものができていくんです、茨城県の東海村に。

そういう中で当時アメリカ大統領だったアイゼンハワーが、「原子力の平和利用はOKだ。だけど原子力発電所が稼働すると当然ゴミとしてプルトニウムみたいなものも出てくる。我々アメリカはこのプルトニウムで原爆を作っちゃったからね。そういうリスクが世界中に蔓延するのは困る」と。アメリカとしても自分だけが核兵器を持っておきたいという気持ちを持っているので。原発はOK、でも核兵器の開発は許さないよみたいな国際組織を作るべきだよねというので国際原子力機関、IAEAというのができるわけですね(1957年)。


中島:

アメリカって自分のところは持ってるのに、しかも1万発とか、万ですよ。


青木:

地球を何十回か破壊できるぐらいの。


中島:

それなのにどこかが持とうとしたら「ダメだ」というふうなことをずっと言ってるという、これがまかり通っているというのもようわからん原理だなという。もちろん同盟国だからというところはあるんですけど。


青木:

トランプさんからアメリカファーストが始まったわけじゃないんですよね。昔から、九州の言葉に「わが、ええごつ」という言葉があるけど、自分だけ。

中島:

ということを思わないでもないし、思っている人も世界中にいるだろうなという。


青木:

そうですね。ただ一応IAEAという核兵器開発をやたらとやらないようにする、それを見張るための国際組織ができたことはこれはプラス。その本部はウィーンなんですよ。なんでウィーンかというと、オーストリア、1955年にオーストリアって、日本と同じように敗戦国なので占領状態が続いていたんです。それから独立をするときにアメリカ、イギリス、フランス、そしてソ連に向かって「我々はスイスと同じように永世中立で行きます。核兵器も絶対に持ちません」と、これを約束したわけです。核兵器を絶対に持たないということを宣言した国だからIAEAの本部としては良いよねというので、現在もウィーンに置かれているわけですよね。

中島:

そうなんですね。


青木:

そして60年代ですね。


中島:

60年代は3回目ということで行きましょう。









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