世界史参考書の超ロングセラー『青木裕司 世界史B講義の実況中継』シリーズの青木裕司先生と、福岡を中心に活動する人気タレント中島浩二さんの「青木裕司と中島浩二の世界史ch」の文章版です(許可を得ています)。
(前回の記事「戦後日本の国際関係(1)日本の再軍備」はこちら)
動画版:「講和条約と賠償」
中島:
歴史を紐解けば未来が見える。大人の世界史チャンネル、中島浩二です。そして河合塾のカリスマ講師、世界史の青木先生です。よろしくお願いします。
自衛隊というところまでやりました。
青木:
戦後日本の再軍備がアメリカの肝入りで始まっていった。大きなきっかけは1950年に起こった朝鮮戦争+その前年に成立した中華人民共和国。共産党が中国を支配する。これが東アジアの東西のバランスを大きく崩し、アメリカの占領政策を根本的に変えてしまうんですね。日本はアメリカの頼りになる同盟国に。
朝鮮戦争が始まった翌年の1951年に日本はいわゆるサンフランシスコ講和会議、これに参加をして、旧連合国との間に平和条約を結んでいくわけですね。
平和条約、第二次世界大戦の平和条約ですね。いつの段階で結んでいくのかみたいなものについてはわりと戦後すぐに議論も始まっているんですね。
中島:
そんなに時間がかかっちゃったんだと思って。
青木:
そうですね。ひとつはアメリカの占領政策がまあまあうまくいって、しばらくアメリカさんに頼っていこうという国民的な期待もあったみたいな感じなんですよ。
中島:
だって6年でしょ。
青木:
6年なんです。ただ、3年目4年目あたりになってくると日本の報道管制も少し緩やかになって、アメリカ軍の兵士によって行われた犯罪が報道されるようになるんです。だんだんそれが広がっていくわけです。やっぱり戦後日本、何年間も占領され続けるとやっぱり誇りを傷つけられるよねと。そういった気持ちもだんだん高まっていく中で、講和会議を早くやって占領状態も終わらせると。
中島:
自分たちが独立独歩でやっていかないと、ということですね。
青木:
はい。主権を回復するというね。
その気持ちを大きく促進させたのが朝鮮戦争なんですよ。日本を早く独立国家にして、第二次世界大戦の後始末をきちんとやって、日本をきちんとした同盟国として頑張ってもらいたいと。そういったアメリカの意図がやっぱり強く働いて。
中島:
アメリカもそう思ったってことですね。
青木:
そうですね。1951年にサンフランシスコ講和会議が開かれるわけですね。
条約の内容は詳しく言いませんけども、基本的に日本の領土は4つの島と周辺の島々。「千島列島については放棄する」という一文があって、その千島列島の中にいわゆる今の北方領土が含まれるかどうかは当時も実は議論になっていたということですね。
このへんが詳しく知りたいかたは日露関係史をこのチャンネルでやっていますので、そちらをご覧いただきたいと。
このサンフランシスコ講和会議には中国の代表は呼ばれておりません。中国代表は誰なのかを巡ってソ連とアメリカの間に対立があったと。さらに朝鮮半島の大韓民国、李承晩という大統領がいましたけども、彼も参加をしたいと言ったんですが、これは参加は認められなかった。なぜかというと、講和会議に参加できるのは交戦国に限ると。要するに日本と戦った国。日本の植民地として支配されていた国々には参加の権限はないと。あくまで戦った者同士の話し合いの会議であるということだったらしいんですよ。
中島:
というか本当に自分勝手ですよね。韓国だって参加したいだろうという。
青木:
実際に朝鮮半島からも徴兵されて、かなりの朝鮮の人たちが犠牲になったりしているわけですから、この点に関しては李承晩さんの言っていることのほうに筋があるんじゃないかなと思うんですけどね。
結局参加が認められなかった国、あるいは中国なんかは参加していないと。それから調印せずに帰った国が3つあるんですね。これがソビエト連邦と、ソビエト連邦の子分であったチェコスロバキアとポーランドなんですよ。
結局日本の主要な、特に日本陸軍の主要な相手というのはアメリカじゃなくて中国だったんだろうと、その中国の代表として適切な毛沢東が呼ばれていないのはおかしいじゃないかと。ここでも抗議の意志を示すために、会議には一応来たんだけども調印せずに帰って行っちゃうんですね。
中島:
これは実際どうなんですか?ソ連が共産国と一緒に帰ろうみたいな、そんなことですか?
青木:
そんなことです。
中島:
親分で子分みたいな、そういうことですよね。
青木:
日本との間には千島列島、北方領土の問題を巡っていろいろ複雑な問題もあるので、ここは公開の議論で議論するよりは曖昧なものにして、千島列島全島を、北方領土も含めて全部軍事占領しているわけじゃないですか。
中島:
ここできちんとなって、あそこを返しなさいということになったら嫌だということですね。
青木:
それを指し示す文章というのは残っていないんだけども、僕の見た限り確認できなかったんだけども、そういうところがあったのは間違いないですよね。ということで結局、当時言われていたのは、いわゆる当時で言う西側の国々だけとの講和、片面講和でしかなかったと。社会主義、共産主義の国ともきっちりと講和の話し合いをすべきだという議論は当時もあったんですけどね。でも帰ってしまったものはしょうがないですよね。
中島:
あんなどさくさの中でワーッとやられたら、向こうだってうしろめたさがあるから話したくないみたいなことはあったんでしょう。
青木:
うしろめたさを感じる国じゃないですよ。
中島:
うしろめたさというか、話をしたら返さなきゃいけなくなるという、それは俺たち嫌だよねということで帰っちゃってるみたいな。
青木:
そこはそうだと思います。公の議論になったら、それは負い目がいっぱいあるんだよ。
中島:
だから「これやばいよ」って、「俺たち帰っとこうや」という、その感じですよね。
青木:
まともな議論になったら太刀打ちできないというのはたぶんあったと思うんですけどね。それで帰って行っちゃったと。
その平和条約の調印式が終わった翌日(※「同日」(のぶた))に、吉田茂さんがアメリカとのいわゆる軍事同盟、日米安全保障条約に調印するわけですね。ただ憲法上の規定もあったので、日本に軍事力、これを認めるみたいな内容はなくて、あくまでこれまで通りアメリカ軍の駐留を日本さん認めてくれ、それにかかる経費についてはそれ相応の対応してくれと、そういう内容の、軍事同盟というか、アメリカの軍事活動を支える、そういう条約だったんですね。
一方で賠償金。これについてはサンフランシスコ平和条約の条約文の中には「日本国は賠償の義務を負う」という文章はあるんですよ。しかしながら、これもやっぱりアメリカの考えで、もともとは戦後すぐの段階では日本から経済的な賠償金をバンバン取って、日本が強い国にならないようにという懲罰的な賠償案というのはアメリカも考えていたらしいんです。ただ状況は変わったと。日本にはそれなりに強い国になって、北朝鮮やソ連や中華人民共和国に対抗する、そういうパートナーになってほしいということがあるので、日本の経済復興、これを妨げるような賠償金は我々アメリカは取りませんと。同じ欧米のたとえばオランダやイギリスにもOKさせるんですよね、それで結局。
中島:
本当になんていうか、国際政治ってすごい話ですよね。
青木:
結局アメリカ、イギリス、オランダ、オーストラリア。こういった国々は買収の権利はあるんだけども賠償権に関しては放棄しますと。ただ、太平洋戦争の最中に日本軍が進駐して、いろいろご迷惑をかけた国があるじゃないですか、インドネシアとかね。そういった国々の皆さんには放棄しろとは言いません。それについては日本と二国間で交渉してくださいと。結局このあと二国間交渉が進められて、フィリピン、ビルマはミャンマー、インドネシア、そしてベトナム。当時ベトナムも南北に分断されていて、北のほうは社会主義者のホーチミンが支配して、南のほうにはフランスの傀儡国家であったベトナム国というのがあって、そこに対して日本は賠償すると。
ただ総額がいくらかというと10億ドルなんですよ、4国合わせて。だから3600億円。インドネシアのスカルノさんなんかは、確か2億ドルぐらい、700億円ぐらいもらうことになったんだけども、そんな被害じゃないと。餓死を含めて何百万人と犠牲になっているので、この10倍ぐらい要求したらしいんですよ。しかし日本政府はそれを拒否すると。その背後にはアメリカなんですね。
しかも現金で払うというのは日本にとって負担になるので、多くの賠償は金銭ではなくて生産物、あるいは役務。
中島:
だからインフラ、ODAに近いものですよね。
青木:
たとえばインドネシアにダムを作るとか、ダムを作って差し上げます。ただそれは日本の企業がやります。日本の企業自身は儲かるわけですね。そういう形でもってダムを作って差し上げます。こういうのを役務、役務と書いて「えきむ」と言うんですけども、だからよく言われるのはおっしゃったように、日本の政府開発援助、ODAと一緒じゃないかと。結局紐付きで、結果として日本の企業が潤う結果になるよねと。もちろん作ってもらうこと自体はその国の利益になるんだけども、でも日本もちゃんとしっかりと利益を確保してるよねと。
中島:
そこのところは日本はしたたかで、良かったんじゃないかと思います。
青木:
ただこれは東南アジアの人たちから疑念の目で見られるよね。日本は40年代に武力でやってきたと、今度は賠償という形で資金を投下して日本の企業も進出をすると。そういう形で経済的な進出を我々に対してやっているんじゃないかと。だからある意味2番目の日本の進出、侵略ではないかという声も小さくはなかったんですよね。
以上は1951年のサンフランシスコ講和条約に基づいた賠償ですね。確認しますと、アメリカみたいに「権利はあるけどいりません」といった国。「一応被害は受けたんで賠償してください」と、これはそれに応じたと。一方、サンフランシスコは平和条約に基づかない賠償というのもこのあと問題になってくるんです。それについてお話をしてこのシリーズはいったん幕を引こうと思います。
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