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大隈重信: 総理大臣列伝【誰も得しない日本史】

執筆者の写真: 順大 古川順大 古川

第1次大隈重信内閣は、1898年6月に発足しました。初の政党内閣です。大隈重信は人々からとても慕われたといいます。

大隈重信は反元老でも有名で、元老ド真ん中の山県有朋とかは、大隈重信のことをとても嫌っていました。

 


 

大隈重信が生まれたのは、1838年2月16日です。ということは、日米修好通商条約のときに、だいたい20歳だったことになります。

大隈重信の父は、佐賀藩の砲術長でした。佐賀藩といえば、幕末に反射炉を最初に建設して、西洋式の最新砲であるアームストロング砲を鋳造することに成功した、幕末・維新期の火力ナンバーワン藩ですね。ということは、パパ重信はアームストロングとか撃てたんですかね。きっと、ガンタンクとかガンランスみたいなパパだったんでしょう。竜撃砲どーん!!

 

大隈重信は在野の期間が長いので、政治家として以外の活動も多く、有名なところでは、1882年10月に東京専門学校を創設します。現在の早稲田大学です。

 

 

《日本語訳してみよう》

 

All the adversity I've had in my life, all my troubles and obstacles, have strengthened me.

 

 

大隈重信は外務大臣として条約改正交渉にあたっていたことがあるのですが、1889年、政治団体玄洋社の来島恒喜が投げた爆弾で重傷を負いました。閣議の後に、馬車で官邸に帰る途中のことでした。このテロの結果、大隈重信は右脚を切断することになりました。このときに大隈重信が着ていた服は、今も早稲田大学に保管されています。足は大隈の故郷である佐賀市の龍泰寺にあります。

来島恒喜は暗殺が未遂に終わった後に自決するのですが、この後の大隈重信の行動は不思議です。大隈重信と妻の綾子は、来島恒喜の命日には墓参りを欠かさなかったというのです。不思議なエピソードです。

 

あと、なにげに1910年、72歳の時に、白瀬南極探検隊後援会長とかやってますし、1914年には76歳という高齢で内閣総理大臣に再び就任します。すごいエネルギーですね。

 

 

《日本語訳》

 

人生で直面したすべての災難のすべて、そしてトラブルや障害のすべてが私を強くさせた。

(byウォルト・ディズニー) 

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