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高校教科書理解度チェック:近現代2(大学入試論述対策)

受験生・学生の質問を受けつています。

質問フォームに質問を送れば、ブログで回答します(できる限り)。



以下の問いに答えられますか。

解答例はページの下の方で。

1. 士族反乱の背景を説明できる。

2. 民選議院設立の建白書の影響と歴史的意義を説明できる。

3. 初期の自由民権運動の拡大に対する政府の対応を説明できる。

4. 三新法の制定を自由民権運動の拡大の中で説明できる。

5. 1870年代後半における、自由民権運動の展開の特徴を説明できる。

6. 明治十四年の政変が自由民権運動に与えた影響を説明できる。

7. 松方財政の前提・経過・展開を示して、その影響や歴史的意義を説明できる。

8. 松方財政が自由民権運動に与えた影響を説明できる。

9. 80年代なかごろからの、自由民権運動の展開と、それに対する政府の対応を説明できる。

10. 伊藤博文がヨーロッパに渡った目的を説明できる。

11. 伊藤博文の立憲制準備過程における、一つ一つの制度改革について説明できる。

12. 皇室典範とは何かを説明できる。

13. 諸法典編纂のねらいと特徴を説明できる。

14. 民法典論争がなぜおきたかを説明できる。

15. はじめての衆議院議員総選挙の結果と、それに対する政府の対応を説明できる。













【解答例】

1. 維新後の待遇や特権剥奪に不満を抱く士族とともに、明治六年の政変で下野した者が政府批判の運動を始めていた。また、明治政府の急激な近代化政策に反発する民衆も多かったため。

2. 有司専制を批判し、公議世論の尊重を訴える民撰議院設立の建白書は、左院に受理されなかったが、建白の内容は新聞に掲載されて、自由民権運動の口火となった。

3. 立志社や愛国社などの政社が結成されて拡大していく状況に対して、政府は大阪会議を開いて民権家の取り込みをはかり、漸次立憲政体樹立の詔を出して国会開設方針を明確にした。ただし、政府は讒謗律や新聞紙条例を制定して、言論統制を強めもした。

4. 三新法の制定により、府会・県会を通してある程度の民意が組み入れられる制度となり、地方の民権家の勢力を伸長させた。

5. 士族だけの自由民権運動だったものが、地主や都市商工業者が参加するものへと変化をとげ、国会期成同盟の結成など行動が具体化して行った。なお、政府は集会条例で弾圧した。

6. 政変によって藩閥政権が確立したが、民権化は憲法作成に備えて私擬憲法を作成し、国会開設に備えて政党を結成した。

7. 不換紙幣の濫発によりインフレが起こって国家財政が破綻の危機に陥ったため、大隈重信が財政整理をはかったが、うまくいかなかった。松方正義は、中央税と地方税を増徴・新設して歳入の増加をはかり、軍事費以外の歳出を緊縮し官営事業の払い下げを行って歳出を抑制した。これによって不換紙幣の整理と正貨の蓄積を推進した松方は、日本銀行を設立して銀本位制度を確立して、貨幣制度を確立した。しかし、財政緊縮はデフレを招き不況が深刻化したため、自作農が没落して寄生地主制度が広がった。没落した自作農の子女は工場労働者になり、寄生地主は資金を産業界に投資することによって、後の企業勃興と資本主義の発達の前提条件をつくりだした。

8. 松方財政による不況の深刻化によって、地主や農民が民権運動から離脱して、自由民権運動が停滞した。

9. 自由党と改進党の対立で停滞に拍車がかかるなか、政府の弾圧や不況下の重税に反発して騒擾事件が続発した。民権運動の指導者たちはこれに対応できなかったため、一時民権運動は衰退した。その後、民権派全体の団結を目指す大同団結運動や三大事件建白運動が起こるが、政府は保安条例で民権派を東京から追放した。

10. 天皇と政府の権限が強いドイツ流の憲法を学ぶため。

11. 制度取調局を設けて、憲法問題などの重要事項を調査させた。貴族院の中心となる華族の地位を明確化するために華族令を出した。政府機構を一体化して各省の権限を強化するために内閣制度を創設して内大臣を内閣の外においた。中央集権的な地方制度を確立するために、市制・町村制と府県制・郡制を公布した。

12. 皇室典範とは、皇位の継承や摂政の制など、皇室に関わることを規定する法で、一般には公布されなかった。

13. 条約改正のために、法治国家としての体裁を整える必要があったから。治外法権の撤廃にとって刑法と治罪法(刑事訴訟法)が必要不可欠だったため、憲法に先行して刑法と治罪法が公布された。

14. 1890年公布の民法はフランス民法の影響が強かったため、家族道徳など日本の伝統的な倫理が破壊されるとの批判がおこった。

15. 選挙の前に旧民権派の再結集が進み、総選挙では旧民権派が大勝した。政府は憲法発布直後に黒田清隆が声明していた、超然主義の立場で対抗しようとした。

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