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執筆者の写真順大 古川

高校教科書理解度チェック:近現代5(大学入試論述対策)

受験生・学生の質問を受けつています。

質問フォームに質問を送れば、ブログで回答します(できる限り)。



以下の問いに答えられますか。

解答例はページの下の方で。

1. 第2次西園寺公望内閣をめぐる政治状況と、総辞職の理由を説明できる。

2. 元老が大隈重信に組閣させたねらいと、大隈内閣の結果を説明できる。

3. 第一次世界大戦前の国際関係と対立の状況を理解させ、日本の国際的な立場を説明できる。

4. 日本が大戦に期待したことと、参戦したねらいを説明できる。

5. 第一次世界大戦中に、日本が勢力を拡大するために行ったことと、その国際的影響を説明できる。

6. 第一次世界大戦による好況が、日本経済の構造をいかに変え、工業国となったかを説明できる。

7. 吉野作造普通選挙制と政党政治の実現を主張した理由を説明できる。

8. 米騒動の結果と、歴史的意義を説明できる。

9. 原敬内閣の政策と、その内閣の結果を説明できる。

10. 条約に対する日本の対応と、中国・朝鮮民衆の動向を説明できる。

11. ワシントン会議の目的と結果を、3つの条約内容から説明できる。

12. 大戦後の社会運動の勃興の概要を説明できる。

13. 清浦奎吾内閣に対して起こった運動と、その結果誕生した護憲三派内閣の政策の概要を説明できる。

14. 第二次護憲運動以降、大正・昭和初期の政党の動きを概観できる。

15. 都市化を担った階層や、女性の社会進出について説明できる。

16. 文化や経済の二重構造を説明できる。

17. 大衆文化の前提条件を、教育とマス=メディアから説明できる。

18. 大正時代の学問の動向を概観できる。

19. 大正期の文学の動向を概観できる。













【解答例】

1. 与党の立憲政友会が積極財政を、商工業者が減税を、軍部が軍事予算拡大を求めたため紛糾し、陸軍二個師団増設問題で総辞職に追い込まれた。

2. 大隈は言論界や民衆の間で人気があったため、元老はその人気で政友会に総選挙で勝利し、2個師団増設を可決・成立させようとした。

3. ドイツ・オーストリア・イタリアの三国同盟と、イギリス・フランス・ロシアの三国協商が対立していた。日本は、日英同盟協約と日露協約で、三国協商側の立場になる。

4. 大戦勃発によって欧米への軍需品輸出の増加で日露戦争以来の不況から脱出し、欧米が東アジアに介入できないときに勢力を拡大できると期待した。

5. 日英同盟を理由として参戦し、ドイツの領土などを接収した。また、中国に対する権益を拡大するために、袁世凱政府に二十一カ条の要求を行い、その後段祺瑞政権に西原借款を与えた。こうした日本の動きに、欧米列強は警戒を強めつつも、アメリカは石井・ランシング協定を結んだ。

6. ヨーロッパには軍需品を、アジアへは綿織物を、アメリカへは生糸を輸出して、輸入超過から輸出超過へと転じた。海運・造船業や鉄鋼業および化学工業が発展して、東アジアで初めて重化学工業国化を達成し、工業生産額は農業生産額を上回った。工業原動力は蒸気力から電力へと転換した。

7. 民衆の意見を集約するには人びとに選挙権を与え、その意見をまとめて政策として実現するのが政党であると考えていたから。

8. 政府は軍隊を出動させて鎮圧にあたったが、責任を追求する世論の前に寺内内閣は総辞職した。国民の政治参加の拡大を求めるなどの民衆運動の高まりをみた元老の山県有朋は、立憲政友会の原敬を総理大臣に任命し、本格的な政党内閣が誕生した。

9. 対外的には国際協調外交の原型をつくり、対内的には積極政策の推進・選挙資格を3円に引き下げ・小選挙区制導入を行った。しかし、戦後恐慌によって財政的に行き詰まり、党員による汚職事件も続発して、原敬は暗殺されるに至った。その後は、短命の高橋是清内閣をへて、再び非政党内閣へと戻った。

10. 山東省の旧ドイツ権益を継承し、赤道以北の旧ドイツ領南洋諸島の委任統治権を獲得した。中国では、旧ドイツ権益の中国への返還を求める五・四運動が起こり、朝鮮では三・一独立運動がおこった。

11. ワシントン会議は、財政負担軽減のための軍縮と、日本の東アジアにおける膨張を抑制するために開かれた。四カ国条約では、太平洋における現状維持がはかられて、日英同盟協約が終了した。九カ国条約では、中国の主権尊重・門戸開放・経済上の機会均等が確認され、日本は山東省の旧ドイツ権益を返還して、石井・ランシング協定は廃棄された。海軍軍縮条約では、主力艦のトン数が制限された。こうして、ワシントン体制とよばれる、戦争再発の防止と列強間の強調をめざした国際秩序が生まれた。

12. デモクラシーの風潮やロシア革命・米騒動の影響、および経済発展による労働者の増加と物価上昇は、様々な運動を発展させた。労働運動では、対戦前の友愛会にはじまる労働組合が発展し、メーデーや日本労働総同盟結成を経ながら、階級闘争主義へと向かっていった。小作争議の頻発をうけて、日本農民組合が結成された。民本主義は、黎明会や東大新人会の活動で広まっていった。大逆事件以来「冬の時代」にあった社会主義運動が日本社会主義同盟結成によって再開し、森戸事件や日本共産党結成へとつながった。女性運動では、文学団体の青踏社が結成され、新婦人協会や婦人参政権獲得期成同盟会は女性参政権を要求した。また、女性による社会主義運動組織として赤瀾会が結成された。全国水平社が結成され、被差別部落民による解放運動が始まった。

13. 枢密院議長から清浦奎吾が首相となると、超然内閣との批判がおこって、選挙で護憲三派が圧勝した。護憲三派内閣の第1次加藤高明内閣は、幣原外交で国際協調を推進し、普通選挙法を成立させた。ただし、日ソ国交樹立による共産主義の波及を防ぎ、労働者階級の政治的影響力の増大に備えるために、治安維持法を成立させた。

14. 憲政会と立憲政友会は、革新倶楽部を含めて護憲三派内閣を成立させた。その後、政友会が革新倶楽部を吸収して護憲三派から離反すると、政友会単独の第2次加藤高明内閣となり、それは第1次若槻礼次郎内閣に受け継がれた。若月内閣が金融恐慌で総辞職すると、立憲政友会の田中義一が組閣した。野党となった憲政会は、清浦内閣のときに立憲政友会から離反していた政友本党と合併して立憲民政党となった。こうして後の五・一五事件まで、二大政党が交代で内閣を組織する「憲政の常道」が続いた。

15. 大戦中からの経済発展によって工場や会社が増加し、労働者やサラリーマンが増加した。女性の職場進出も盛んとなり、タイピスト電話交換手など職業婦人が生まれた。

16. 個人消費支出が増加し、「大衆消費社会」的状況が現れたが、一般農家や中小企業の労働者の生活水準は低く、大企業と中小企業、都市と農村とのあいだの格差が問題となった。

17. 義務教育が明治末に完成し、高等教育機関も拡充された結果、サラリーマンなどの都市生活者が増えた。マス・メディアが発達して、一般勤労者(大衆)を担い手する大衆文化が誕生した。

18. 大正デモクラシーのもとで自由主義が主張される一方、マルクス主義が知識人に大きな影響を与えた。人文科学では歴史学や民俗学が発展し、自然科学では世界最先端の業績も生まれた。

19. 白樺派が人道主義・理想主義を掲げ、耽美派は芸術至上主義で官能的な美を追求した。一方で、東大出身の小説家は新思潮派とよばれ、理知的に人間や社会を分析した。その他、感覚的・技巧的な文体を追求する新感覚派や、娯楽中心の大衆小説も人気となった。大正の末から昭和の初めにかけては、社会主義運動や労働運動の高揚にともなってプロレタリア(←労働者)文学運動がおこった。

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