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高校教科書理解度チェック:近現代8(大学入試論述対策)

受験生・学生の質問を受けつています。

質問フォームに質問を送れば、ブログで回答します(できる限り)。



以下の問いに答えられますか。

解答例はページの下の方で。

1. 戦勝国が敗戦国に行った政策を説明できる。

2. アメリカによる日本占領機構の特徴と占領目的を説明できる。

3. 戦後改革に関するGHQの指令・実行がどのようにおこなわれたかを、内閣の動向と関連させながら説明できる。

4. 民主化政策の概要を説明できる。

5. 戦後に復活した政党の、戦前の政党とのつながりを説明できる。

6. マッカーサー草案がなぜ急遽つくられ、日本政府へ提示されたのかを説明できる。

7. 敗戦直後の経済危機に対する政府施策と、その結果を説明できる。

8. 中道左派政権に対する国民の期待と、その政治的な限界を説明できる。

9. 第二次世界大戦後における、アメリカ主導の世界経済再建の枠組みを説明できる。

10. 対日占領政策の転換と、そのねらいを、冷戦体制下における国際情勢と関連させて説明できる。

11. GHQの吉田内閣への指令とその経済的影響、およびそれが労働運動へ与えた影響を説明できる。













【解答例】

1. 連合国は、巨額の賠償金を敗戦国に課したヴェルサイユ条約の失敗にかんがみ、敗戦国が2度と戦争に訴えることのないよう、長期の占領を通じて、その国家と社会を平和的な仕組みに改革する道を選んだ。

2. 日本は、事実上アメリカ軍事による単独占領で、非軍事化と民主化による日本社会の改造が目指された。GHQの指令・勧告にもとづいて日本政府が政治を行う、間接統治の方法がとられた。ワシントンには占領政策決定の最高機関として極東委員会がおかれ、東京には諮問機関である対日理事会が設けられた。

3. 東久邇宮稔彦内閣は、進駐軍を受け入れて日本軍の武装解除をし、降伏文書に調印したが、GHQの人権指令に対応できずに総辞職した。幣原喜重郎内閣は、五大改革指令を受け入れ、戦争犯罪人を逮捕して極東国際軍事裁判所を設置した。1946年1月には、いわゆる天皇人間宣言が出され、公職追放が始まった。

4. 財閥と寄生地主制が日本軍国主義の温床とされ、経済の民主化がはかられた。財閥解体では、持株会社整理委員会をつくり、独占禁止法過度経済力集中排除法を定めた。寄生地主制に対しては、2度に渡る農地改革を行った。労働三法で労働者を保護し、教育基本法などで教育の自由主義的改革を行った。

5. 旧立憲政友会系の人々は、翼賛選挙時の非推薦議員を中心に日本自由党を結成し、旧立憲民政党系の人々は、翼賛体制期に大日本政治会に属していた議員を中心に日本進歩党を結成した。また、旧無産党政党は日本社会党となり、田中内閣の3・15事件で逮捕されていた徳田球一を中心に、日本共産党が合法政党として活動を開始した。

6. 幣原喜重郎内閣の憲法草案は、依然として天皇統治権を認める保守的なものであった。そこで、GHQは極東委員会の活動が始まる前に、アメリカ主導で憲法制定するために、英文のマッカーサー草案を作成して、日本政府に提示した。

7. 物不足と通貨の増発によってインフレーションとなったため、幣原内閣は預金を封鎖して新円を発行して貨幣流通量を減らすために、金融緊急措置令を発したが、効果は一時的であった。さらに、傾斜生産方式を採用して石炭・鉄鋼産業へ資金を提供したために、結局はインフレが継続することになった。

8. 大衆運動の高揚を背景に、日本社会党衆議院第一党となった。日本社会党の片山首相は民主党国民協同党との連立内閣を発足させたが、政策調整に苦しみ翌年辞職した。ついで民主党総裁の芦田均内閣が、同じ三党の連合として発足したが、昭和電工事件で退陣した。

9. IMF国際通貨基金)とIBRD(世界銀行)で、安定した通貨のブレトン・ウッズ体制を構築し、GATT(関税及び貿易に関する一般協定)で国際貿易の促進を目指して、アメリカ主導で、ドルを基軸通貨とする固定為替相場制と自由貿易体制のもとで資本主義的世界経済の再建をはかる枠組みを構築した。

10. 初期の占領目標は、非軍事化・民主化を通じて日本社会を改造し、アメリカや東アジア地域にとって日本が再び驚異となるのを防ぐことにあった。しかし、国共内戦における共産党の優位をうけて、アメリカの対日占領政策は、日本を政治的に安定した工業国として復興させ、西側陣営の東アジアにおける主要友好国とするように転換した。

11. 日本の経済的自立を促進するために経済安定九原則を示して、ドッジ=ラインで財政支出の大幅削減をおこない、単一為替レートを設定し、直接税中心の税制改革を行った。これらによってインフレは収束したが、不況が深刻化した。これに対して労働運動が高揚したが、下山事件などの嫌疑をうけて、労働者側は結局押し切られた。

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