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境・雑賀・国友などにどうやって鉄砲技術が広まったの?なぜ時尭は鉄砲を仕入れ量産させた後流通させてしまったんでしょうか?流通させてなければ種子島氏が圧倒的な武力で周辺を統治出来たのでは?【歴史部日記】

まずは日本中に鉄砲が広がった過程から見ていきましょう。


各大名の鉄砲の受容を見てみましょう。

『鉄炮記』によると、1543年に鉄砲が伝来して間もなく、種子島氏の家臣が自前の鉄砲を持って明に渡ったといいます。このことは、かなり早い段階で鉄砲の製造が始まったことを示唆しています。

種子島に近い島津氏は、天文十八年(1549年)に、鉄砲を実践で使用しています。

1549年以前に、管領の細川晴元は種子島から鉄砲を入手しています。

以上により、種子島の鉄砲は比較的早くから九州や京都に伝わったことが分かります。


1549年、大内義隆はザビエルから鉄砲(燧石銃(フリントロック式)を入手しています。

大友氏も独自に石火矢を外国から入手しています。

つまり、日本に広がった鉄砲が必ずしも種子島の鉄砲から広がったとは限らないことを意味します。いろいろな場所に何回にもわたって伝来してきたのでしょう

ということは、種子島時尭が独占しようとしてもできなかったわけです。なお、『鉄炮記』によると種子島では長い時間をかけて数十挺の鉄砲を作成したそうです。


1554年の陶晴賢の戦の記録に鉄砲傷がないことから、この段階の周防・石見では鉄砲が使用されていないことが分かる。

大友宗麟は、鉄砲を贈答品としてさかんに用いました。大友宗麟は鉄砲を将軍義輝に献上して、永禄二年(1559年)に豊前・筑前守護に任じられたといいます。

将軍は鉄砲をたくさん手に入れていて、1553年にその鉄砲を見本として境の鍛冶に鉄砲を一挺作成させて、関東上野の新田の豪族に贈っています。←これを考慮すると、境の鉄砲鍛冶は将軍から始めて鉄砲を手に入れて技術を開発したのかもしれません。


西国では、毛利氏は弘治三年(1557年)に、初めて鉄砲を実践で使用しています。

1558年が永禄元年ですが、永禄年間になると鉄砲傷が見られるようになってくるそうです。永禄十年(1567年)ごろになってくると、鉄砲が威力を発揮してくるようです。

永禄十一年(1668年)以降になると鉄砲の大量使用が認められるようになり、敵も味方も数千挺の鉄砲を装備して戦をすることもありました。

宇田川武久氏によると、信長が永禄十一年に上洛して鉄砲を制作して販売し、さらに焔硝をあつかう境の有力商人衆を服属させたことが背景にあるかもしれないとのことです(『日本鉄砲の歴史と技術』)。

なお、長篠の戦いは天正三年(1575年)です。


北陸にあり、鉄砲の導入に積極的ではなかった上杉謙信でさえも、天正三年(1575年)には300丁くらいの鉄砲は持っていました。なお、この時期の鉄砲の装備率としては、低めの数字のようです。東国でいえば、同じく鉄砲の装備率が低かった武田氏は、永禄十年(1567年)に鉄砲の鍛錬をするようにとの命令を家臣に下しています。

こうしたことからは、種子島に鉄砲が伝来して20年ほどたつと、東国の大名にまで鉄砲の重要性が認識され始めたことと、東国では十分な数の鉄砲をそろえられなかったために、武器としての威力を活かす使い方はできなかったということが推測できます。


これらのことから、最初、鉄砲は将軍や戦国大名間の贈り物として広まって、次第に実践用に入手するようになったと考えられます。


こうしてみると、種子島時尭が鉄砲を独占しようとしても無駄ですし、種子島の鉄砲生産力程度では、数千挺の鉄砲同士で戦うような時代にもついていけないことが分かりました。

あ、雑賀とか国友に鉄砲生産が広がった理由はよくわかりませんでした。そのへんの地方史を見たほうがいいかもしれません。機会があれば、県史ぐらいまではめくってみます。


【参考文献】

『一揆と戦国大名』日本の歴史13(久留島典子・講談社)

『日本鉄砲の歴史と技術』(宇田川武久編・雄山閣)

『鉄砲と戦国合戦』(宇田川武久・吉川弘文館)

『日本の大砲とその歴史』(中江秀雄・雄山閣)








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