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武田氏あれこれ(歴史・地理クラブ生徒質問)

更新日:2023年10月5日

武田氏の菩提寺として知られる恵林寺に行かれた生徒さんからの質問です。







1、武田家の家系図を見ていて、武田信玄の子供が上杉家に嫁いでいるのはなぜですか? 人質としてですか? 敵なのに‥

信玄の娘で上杉家に嫁いだというのは、五女の菊姫(大儀院)のことですね。菊姫は、上杉謙信の後継ぎとなった上杉景勝の正室となりました。すでに信玄が死んで、武田勝頼の時代になっているときです。


菊姫の場合は、人質というよりも同盟の証と考えたほうがいいと思います。武田氏と上杉家が敵対していたのは主に信玄が元気だったころで、勝頼は、特に長篠合戦で織田信長に負けた後は上杉家に近づきました。その結果、1579年に菊姫が景勝に嫁ぎ、甲越同盟が成立したと説明されます。


というわけで、「敵なのに嫁いだ」というよりは、「仲良くなったから(仲良くなるために)嫁いだ」と考えるのがよさそうです。


2、武田信玄が遺言で自分の死を3年隠すようにありましたが、実際誰も気づかれず3年過ごせたのですか? 影武者とかいたのですか? 3年死を隠したのは、敵に攻められないためだと思いますが、すぐに知られたら歴史は変わったと先生は思いますか?

(※追記あり)

武田信玄が死んだのは、1573年の4月です。

その年の7月に、室町幕府15代将軍足利義昭が山城国槇島城で反信長の挙兵をするのですが、そのときに武田信玄宛の書状を送っているそうです。これは、信玄の死後3ヶ月の段階では将軍も信玄の死を知らなかったということになりそうです(挙兵したのも、信玄が生きていると義昭が思っていたからこそでしょう)。


ただ、その直後の8月には信長は朝倉義景の越前に攻め込みますので、信長はなにか知ることがあったのかもしれません。少なくとも、今は武田氏は動かないという見通しがあった可能性があります。


2年後の1575年の5月には、もう長篠合戦で勝頼が敗北しているので、このころまでには、さすがにバレていたんじゃないでしょうか。


(追記:2023/10/05)

『天皇と天下人 天皇の歴史5』(藤井譲治)には、「信玄の死は伏せられたが、すぐさま重病であるとの噂が流れた」とあり、同書ではまた、信玄が死んだ3か月後の1573年7月13日に信長が安芸の毛利輝元に送った手紙には「(足利義昭が)とつぜん「御退座」された理由は、甲斐の武田信玄が死去し、越前の朝倉義景もさしたる働きもなく、三好勢等も軍勢不足であるので……」とあると記してあります。

信長は、信玄が死んで3ヶ月以内には信玄の死に確証をもっていることがわかります。また、信長は、義昭も信玄が死んだことは知っていると考えているようですね。

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影武者については、分からないですねえ。ちなみに、黒澤明の映画『影武者』が、武田信玄の影武者をテーマとした映画として有名ですよね。


死を隠した理由は、敵に攻められないためと考えていいと思います。


私的には、足利義昭が1573年の7月に挙兵したのは、やっぱり信玄が生きていると思っていたからだと思います。なので、信玄の死がすぐに知れ渡っていたら、7月の義昭の挙兵は起こらず、1573年7月に室町幕府が滅びることはなかったかもしれません。

そういう意味では、歴史は変わっていたのかもしれません。



3、死後3年後に埋葬してから掘り起こして火葬してますが、なぜ土屋家だったんですか? 火葬塚にも行きましたがわからず‥。一番信頼していた家臣だったとか、遺言だったのかな? その辺りはなにかわかりますか?

そう言われれば、なんででしょうかねえ。。。。


信玄の遺骸を持ち帰ったという土屋昌続は、信玄に信頼されていたことや武田家に忠実だったことはうかがえるのですが、武田二十四将などのなかで、土屋昌続じゃないといけないのかと言われると。。。

うーん。わからないです。武田信玄については、いろいろな本や史料があると思います。なにか見つけた追記していきます。


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