歴史部通信:8月8日号
- 順大 古川
- 2 日前
- 読了時間: 4分
※8月10日(月)~8月13日(木)はお休みです※
【(8月17日~8月20日)の予定:日本史】
月:「月曜日_05.武家社会の成長」商工業の発達
火:「火曜日_10.2つの世界大戦とアジア」パリ講和会議とその影響
水:「水曜日_09.近代国家の発展」廃藩置県
木:「木曜日_02.律令国家の形成」平安遷都と蝦夷との戦い
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【質問調査結果】
Q:1920年に原敬の立憲政友会が選挙で圧勝したのはなぜ?みんな普選にならなくて怒っているんじゃないの?
原敬が首相となっているときは、普通選挙運動が盛り上がっていました。
1919年5月23日の衆議院議員選挙法改正では、選挙権は直接国税3円以上を納める成人男性に広がるにとどまったからです。なお、これ以前は10円以上の納税が条件でした。なおなお、原の改正で大選挙区制から小選挙区制へと変わりました。
特に、1920年の2月ごろには、普通選挙を求める集会や暴力的なデモが、東京を中心に複数の場所で開かれています。同時代の原敬の日記によると「新聞は参加者を五万人とか一〇万人とか称しているが、実際には五千人ほどであったそうだ」とのことです(季武嘉也『原敬』)。毎度のパターンですね。
さて、原敬は普通選挙は時期尚早なので反対という立場でした。原敬は同年に衆議院を解散し、5月10日の第14回総選挙で(選挙権を持つ者に限られますが)国民の民意を問うという勝負にでました。
2月の普選運動に続き、3月15日の株価暴落から戦後恐慌に突入し、5月2日には東京上野公園で日本初のメーデーが開かれるなど、原敬には向かい風とも言える状況下での解散総選挙でした。
結果、総議席数464のうち、原敬の立憲政友会は278議席、憲政会110議席、立憲国民党29議席と、立憲政友会が圧勝しました。なお、立憲政友会は前回よりも100議席以上伸ばしています。
いくつかの本を読んでみましたが、その勝因はおよそ以下のようになりそうです。
①政府が進める地方の公共事業がうまくいっており、住民の支持を得ていた。
②原が、普通選挙を求めるものは「無産階級による政治を実現しようとする共産主義思想」を背後に持つものだとして、人々の支持を得た。
③選挙戦中に恐慌が始まったので、国民の政治的関心が弱まっていた。(①~③は季武嘉也『原敬』)
④露骨な選挙干渉を行った(講談社『日録20世紀 1920大正9年』)。
⑤小選挙区制により選挙区が109から374に増えたので、野党側の候補者擁立が間に合わなかった(山川出版社『日本史の現在5 近現代1』)。
Q:東大寺戒壇院四天王像などがキングダムみたいな鎧を着ているが、中国の鎧なのか?
うまく言葉でまとめきれないのですが、リンク先の記事や添付の画像を見ると、隋唐の鎧の影響を強く受けているようです。



:参考
1、「毘沙門天の発見」
Q:鎌倉時代の慈円が書いた『愚管抄』は後鳥羽上皇を諌めるために書いたと言われますが、実際に後鳥羽上皇は『愚管抄』を読んだのか?
『愚管抄』換言書説は、1920年に三浦周行が提唱したものです。
この説に対しては、同時代の津田左右吉などが異論を唱えているようです。
異論の中でも新しいものとして、森新之介「慈円『愚管抄』幼学書説ーその想定読者に着目してー」(『日本思想史学』47、2015年)を見つけました。
この論文の要旨は、『愚管抄』は熟年でメチャクチャ偉い後鳥羽上皇に読んでもらうような文体になっておらず、数カ所の記述に注目しても若年の懐成親王などに読んでもらうことを目的としたのではないか、ということです。
慈円は承久の乱が勃発する2年前の承久元年(1219年)に上皇の前(宮中)から去っています。これは、蟄居・隠棲に近い状態と考えられます。『愚管抄』が完成したのは承久2年(1220年)ごろなので、慈円が本書を書き上げた時点で、上皇に面会して諫言を呈することができるような物理的・政治的距離にはなさそうです。
また、後鳥羽上皇が『愚管抄』を読んだことを直接的に証明する同時代史料(日記、公文書、書状など)は存在しなそうでした。
なので、後鳥羽上皇は『愚管抄』は読んでいないと推測してもよさそうです。

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