【歴史部日記】2025年11月3週まとめ
- 順大 古川
- 11月18日
- 読了時間: 14分
更新日:4 日前
【目次】
歴史部(2025/11/17)のサマリー
主なポイント
オスマン帝国の歴史と第一次世界大戦後のトルコ革命について議論
ムスタファ・ケマル(アタテュルク)によるトルコの近代化改革の詳細
イスラム国家からの脱却と西洋化を目指したトルコの改革
カピチュレーション(治外法権)の歴史的背景と影響
バルカン戦争からトルコ革命に至る歴史的流れ
議論されたトピック
オスマン帝国の統治構造
スルタンとカリフの役割について質問が出され、詳細な説明が行われた。
詳細
K: スルタンとは何か質問
うえまつ先生: スルタンはオスマン帝国における君主の称号で、11世紀のセルジュク朝時代に始まった。元々は宗教的権威(カリフ)から実権を奪った世俗君主の称号
うえまつ先生: オスマン帝国では後にスルタンがカリフの地位も兼ねるようになった
うえまつ先生: 1922年にスルタン制が廃止されオスマン朝の支配が終わり、1924年にはカリフ制も廃止された
結論
スルタンは政治的権力を持つ世俗君主の称号
ムスタファ・ケマルの改革により、政教分離が進められた
パシャの称号について
「パシャ」という称号の意味と使用について質問があった。
詳細
K: エンベル・パシャやケマル・パシャなど、「パシャ」が共通しているが、これは何か
うえまつ先生: パシャは地位が高い人に与える名誉称号。軍事面では将軍や司令官、また大臣などの高官にも与えられる
うえまつ先生: 例としてミドハト・パシャ(オスマン帝国の大宰相)を挙げ、近代憲法を起草した人物
結論
パシャは軍人や文官の高官に与えられる栄誉ある名誉称号
メガリ・イデア(大ギリシャ主義)
ギリシャの領土拡大政策について議論された。
詳細
I: メガリ・イデアについて質問
うえまつ先生: 19世紀後半から始まったビザンツ帝国領域を最大目標とする大ギリシャ主義運動
のぶた先生: ギリシャが第一次世界大戦後の混乱に乗じてトルコに侵攻したが、すぐに撃退された点を指摘
うえまつ先生: ギリシャ軍はイズミルに上陸し領有を主張したが、ムスタファ・ケマルに敗北した
結論
メガリ・イデアはビザンツ帝国の旧領土を回復しようとするギリシャの拡張主義
第一次世界大戦後の混乱に乗じた「火事場泥棒」的な侵攻だった
カピチュレーション(治外法権)の歴史
不平等条約の一部としてのカピチュレーションの起源と発展について説明された。
詳細
M: カピチュレーションについて質問
うえまつ先生: カピチュレーションは16世紀に遡り、当時強大だったオスマン帝国がフランスなどの同盟国商人に与えた特権
うえまつ先生: 元々はスルタンの恩恵として与えられたが、オスマン帝国の力が弱まると、これが不平等条約の根拠として利用された
うえまつ先生: 治外法権や関税自主権の喪失などの根拠となった
結論
カピチュレーションは元々オスマン帝国が強い立場から与えた特権だったが、後に弱体化すると不利に利用された
ムスタファ・ケマルはこれらの撤廃に成功した
イスラム暦から太陽暦への変更
トルコの暦の改革について質問があった。
詳細
M: イスラム暦から太陽暦への変更理由について質問
うえまつ先生: イスラム暦は1年が360日で計算され、太陽暦との間にずれが生じるため、欧米との交流において不便だった
のぶた先生: 日本の明治維新でも同様の暦の改革があり、明治5年の12月がほぼなくなった
うえまつ先生: 西洋化を進めるトルコにとって、太陽暦への移行は必要だった
結論
欧米との関係を円滑にするために太陽暦を採用した
日本の明治維新でも同様の改革が行われた
トルコ革命とムスタファ・ケマルの改革
ムスタファ・ケマルによるトルコの近代化改革について詳しく議論された。
詳細
O: トルコの改革は脱イスラム化・政教分離を目指し、西洋をモデルとした近代化を推進した
O: ローマ字の採用など文字改革(文字革命)が行われた
うえまつ先生: ムスタファ・ケマルはトルコ大国民議会から「アタテュルク(トルコの父)」という称号を与えられた
うえまつ先生: ケマルは国際情勢をうまく利用し、ソビエト連邦との関係を脅しとして使い、英仏との交渉を有利に進めた
結論
トルコ革命は脱イスラム化と西洋化を目指した
ムスタファ・ケマルは軍事的成功と外交的手腕でトルコの独立を勝ち取った
改革には限界もあり、農村部ではイスラムの伝統が残った
バルカン戦争とオスマン帝国の衰退
オスマン帝国がなぜドイツ側について第一次世界大戦に参加したかについて説明された。
詳細
O: オスマン帝国がなぜドイツ側についたのか質問
うえまつ先生: バルカン戦争でオスマン帝国はセルビア、ブルガリア、モンテネグロなどのバルカン同盟に敗れた
うえまつ先生: バルカン同盟を支援していたのはロシアで、オスマン帝国はロシアと敵対していたドイツ・オーストリア側についた
うえまつ先生: その結果、第一次世界大戦ではドイツ側について戦い、敗北した
結論
バルカン戦争での敗北がオスマン帝国の第一次世界大戦参戦の背景にある
ロシアとの対立からドイツ側につくことを選んだ
次回の予定
全員
次回は「中東の情勢」(112ページ)について学習する
イギリスの三枚舌外交やイスラエル・パレスチナ問題のルーツについて学ぶ
日本史クラス
鎌倉時代の「御家人制と地頭制」(100ページ)について学習する
歴史部(2025/11/18)のサマリー
主なポイント
フランス革命時代(1793年)の重要な出来事と政治的変化について議論
ジャコバン独裁体制の成立と終焉について詳細な解説
革命裁判所の設置と恐怖政治について議論
ルイ16世の処刑過程と議会投票の詳細について説明
イギリスの歴史的構成(イングランド、ウェールズ、スコットランド、アイルランド)について解説
次回は1794年のテルミドール9日のクーデターについて学習予定
議論されたトピック
フランス革命と1793年の危機
フランス革命の重要な転換点である1793年の出来事について、教科書(実況中継第三巻69-74ページ)を読み進めながら議論した。
詳細
うえまつ先生: 1793年はフランス革命の最重要改革が提起され、最大の危機に見舞われた年だと説明
M: 第一回対仏大同盟について読み上げ、フランスの危機状況を説明
M: 対仏大同盟形成の動機について説明し、オーストリア、プロイセン、イギリスなどがフランスに対抗した背景を解説
T: バンデーの反乱について説明
結論
1793年はフランス革命が内外の危機に直面した重要な年であった
対仏大同盟の形成によりフランスは周辺国からの脅威に直面した
ジャコバン独裁体制の成立
ジャコバン派が権力を掌握し、独裁体制を確立した過程について議論した。
詳細
T: ジャコバン独裁時代の政治体制と恐怖政治について説明
N: ジャコバン独裁の中心機関について説明し、6月2日事件によりジャコバン独裁体制が確立したと解説
F: ジロンド派とジャコバン派の支持基盤の違いについて説明し、ジャコバン派が民衆の支持を得ていた点を強調
結論
ジャコバン派は下層民衆の支持を基盤としていたため、危機に対応できる強力な権力基盤を持っていた
革命裁判所の設置により、反革命勢力を弾圧するための制度的基盤が整った
封建的特権の無償廃止と農民政策
ジャコバン政権下での農民政策と封建的特権の廃止について議論した。
詳細
K: 亡命財産償却法と封建的特権の無償廃止について説明
うえまつ先生: 自作農民の増加について補足説明
結論
1789年の封建的特権廃止では不十分だった改革が、ジャコバン政権下でより徹底された
亡命貴族の土地の農民への払い下げにより、自作農民が増加した
理性崇拝と徴兵制の導入
革命政府による宗教政策と軍事政策について議論した。
詳細
T: 理性崇拝の運動とマリー・アントワネットの処刑について説明
F: 徴兵制の導入について説明
のぶた先生: 日本の明治時代の徴兵制と血税一揆との関連性について言及
結論
革命政府はカトリック教会に代わる理性崇拝を推進したが、国民の反発を招いた
徴兵制の導入により大規模な軍隊を動員することが可能になり、対外戦争に対応できた
ルイ16世の処刑過程
ルイ16世がどのように処刑されたかについて詳細な説明があった。
詳細
うえまつ先生: ルイ16世の処刑が議会の投票によって決定されたことを説明
うえまつ先生: 750名の議員のうち、死刑賛成が366名、国外追放賛成が319名だったと具体的な投票結果を紹介
結論
ルイ16世の処刑は1793年1月に議会の採決によって決定された
死刑執行の猶予は認められず、即時処刑となった
イギリスの歴史的構成
イギリスという国家の歴史的構成について質問に応じて説明があった。
詳細
F: イギリスという国家の構成について質問
うえまつ先生: イギリスは正式には「グレートブリテン島および北部アイルランド連合王国」であり、イングランド、ウェールズ、スコットランド、アイルランド(北部)から構成されていると説明
結論
「イギリス」は複数の国が合体した連合王国であり、単一の国家ではない
当時(1793年頃)のイギリスはブリテン島とアイルランド全体を支配していた
ロベスピエールとサンジュストの処刑
ジャコバン派指導者の最期について質問があり、説明があった。
詳細
M: サンジュストの死因について質問
うえまつ先生: サンジュストは1794年のテルミドール9日のクーデターでロベスピエールと共に処刑されたと説明
結論
ジャコバン独裁は1794年のテルミドール9日のクーデターで終焉した
ロベスピエールとサンジュストは共に処刑された
アクションアイテム
全員
次回は第三巻75-78ページ(1794年の出来事、ジャコバン独裁の終焉)を読む
テルミドール9日のクーデターについて予習する
のぶた先生のクラス
日本史の下巻80ページ(日露戦争後の政治と社会、韓国併合)を読む
歴史部(2025/11/19)のサマリー
主なポイント
歴史部の授業で魏晋南北朝時代の文化について学習した
儒学の衰退と仏教・道教の隆盛について議論された
中国の宗教・思想が日本に与えた影響について質疑応答があった
北魏の大武帝時代に道教の国教化と仏教弾圧が行われた経緯が説明された
議題
魏晋南北朝時代の文化概要
詳細
うえまつ先生: 中国史の魏晋南北朝時代(日本でいう三国志の時代、日本史でいう邪馬台国の卑弥呼から倭の五王の時代)の文化について説明
S: 儒学の衰退について読み上げ
のぶた先生: 前回Lさんが質問した松永定信の学問吟味の時のご褒美について、大田南畝が寛政六年に主席で銀十枚もらった実例を紹介
結論
魏晋南北朝時代は政治的混乱の中で儒学が衰退し、新たな思想・宗教が台頭した時代であった
仏教の隆盛
仏教が魏晋南北朝時代にどのように広まったかについて議論された。
詳細
T: 仏教は万民の平等を説き、異民族にとって受け入れやすい思想だったことを説明
うえまつ先生:鳩摩羅什による仏典の漢訳(旧訳)の重要性を説明
T: 華北の異民族王朝では庶民にも仏教が受け入れられ、南朝では貴族の教養として発展したことを指摘
結論
華北と江南で仏教の受容のされ方に違いがあった
「南朝四百八十寺」という言葉があるほど南朝でも仏教寺院が多く存在した
清談の発展
魏晋南北朝時代の知識人の間で行われた清談について議論された。
詳細
O: 清談と竹林の七賢について読み上げ
うえまつ先生: 清談とは「汚れた俗世間とは距離を置いて清らかな議論」を行うことで、老荘思想や言語と思考の関係、食べ物や健康法などについて議論されたと説明
L: 清談の意味について質問
結論
清談は漢帝国の秩序が乱れる中で、官僚としての出世とは異なる価値観を持つ知識人の間で広がった
北魏の実用的文化
北魏における実用的な文化の発展について学習した。
詳細
M: 北魏の酈道元による『水経注』や賈思勰による『齊民要術』について読み上げ
うえまつ先生: これらの書物の歴史的意義について補足説明
結論
北魏では地理書や農書など実用的な文化が発展した
道教の成立と発展
道教の起源と発展について詳しく学習した。
詳細
K: 道教の起源として老荘思想、陰陽五行説、神仙思想の三つの要素について読み上げ
T: 道教の成立と太平道について読み上げ
L: 道士の修行と科学的側面について読み上げ
T: 北魏の太武帝時代に道教が国教化された理由について質問
うえまつ先生: 太武帝に抜擢された寇謙之の主導で道教の国教化が行われ、仏教を弾圧するために利用されたと説明
結論
道教は老荘思想、陰陽五行説、神仙思想などが融合して成立した
北魏の太武帝時代に寇謙之によって国教化され、仏教弾圧に利用された
中国の宗教・思想の日本への影響
中国の儒教・仏教・道教が日本にどのように伝わったかについて議論された。
詳細
O: なぜ儒教は日本に入ってきたのに道教があまり入ってこなかったのか質問
のぶた先生: 儒教と仏教は政治的・外交的に日本に入ってきたが、道教は外交に絡んでいなかったのではないかと推測
うえまつ先生: 道教は体系として日本に入ってこなかったが、部分的な影響はあり、例えば「天皇」という称号は道教の最高神「天皇大帝」に由来すると説明
結論
儒教・仏教は政治的に日本に導入されたが、道教は体系的には受け入れられなかった
道教の部分的な要素(「天皇」の称号など)は日本に影響を与えた
アクションアイテム
うえまつ先生
南朝の庶民が仏教をどのように見ていたかについて調査し、後日共有する
歴史部(2025/11/20)のサマリー
主なポイント
中国の宋王朝(960年-)の特徴と統治システムについて議論
科挙制度の詳細と合格率、官僚になるプロセスについて説明
文民統制(シビリアンコントロール)の概念と宋王朝での実践
軍事権の皇帝への集中と武人から文官への権力移行について
議論されたトピック
宋王朝の建国と特徴
うえまつ先生が宋王朝の建国と特徴について説明し、参加者が教科書の該当部分を読み上げた。
詳細
うえまつ先生: 宋の建国は960年で、前半期の北宋と後半期の南宋に分かれる
F: 宋の建国と初期の政策について読み上げ
M: 軍人から兵力や財力を奪い、皇帝直属の軍隊(禁軍)として再編されたことを説明
T: 文民統制(シビリアンコントロール)の思想について説明
M: 科挙の整備と殿試について読み上げ
I: 君主独裁体制の成立について説明
U: 読書人階級の形成について読み上げ
結論
宋王朝は文民統制を確立し、科挙制度を通じて官僚を選抜する体制を整えた
皇帝を中心とした君主独裁政治が展開された
科挙合格を目指す読書人階級が社会的に重要な位置を占めるようになった
科挙制度の詳細
Tの質問をきっかけに、科挙の合格プロセスと合格後の進路について詳しく議論された。
詳細
T: 科挙で合格しなかった人は地方官僚になれるのかと質問
うえまつ先生: 科挙は郷試→省試→殿試の三段階に分かれ、殿試合格者が進士となり官僚になる資格を得る
うえまつ先生: 地方試験のみ合格した「生員」は、後の明・清時代では地方官僚になる資格があったが、宋代については明確でない
うえまつ先生: 科挙合格者は全人口の0.1%未満の超エリート層を形成した
結論
科挙は非常に競争率が高く、特に南宋時代には開始(最初の試験)の合格率が1%や0.5%まで下がった
科挙合格自体が最大の褒美であり、特に上位合格者(状元)は特別な待遇を受けた
官僚は30,000〜40,000人程度で、人口1億人に対して極めて少数のエリート層だった
科挙合格者への褒美
Iの質問から、科挙合格者への褒美や社会的地位について議論された。
詳細
I: 科挙合格者に褒美はあったのかと質問
うえまつ先生: 合格自体が最大の褒美だが、特に上位合格者(状元)は宴会で特別待遇を受けた
うえまつ先生: 合格者には高官の娘との縁談など、社会的地位向上の機会が与えられた
結論
科挙合格は社会的地位と出世の道を開く最大の褒美だった
特に上位合格者は特別な社会的認知と機会を得た
武人の処遇
Mの質問から、文民統制への移行期における武人の処遇について議論された。
詳細
M: 文民統制に移行する際、暇になった武人たちは反乱を起こさなかったのかと質問
うえまつ先生: システム的には武人のポストを廃止して文官のポストに入れ替えたため、単に暇になるわけではなかった
うえまつ先生: 宋の初代皇帝・趙匡胤は宴会の場で芝居を打ち、将軍たちから軍事権を回収した逸話がある
のぶた先生: 武人の処遇は各国の統一者が苦労した問題だと補足
結論
宋王朝は武人から軍事権を回収し、皇帝直属の禁軍を強化することで文民統制を実現した
武人たちは粛清されることなく、引退に追い込まれる形となった
アクションアイテム
うえまつ先生
次回は131ページからの北宋の混乱と滅亡について講義を行う
のぶた先生
日本史は次回、上巻21ページからの大和政権の支配機構について講義を行う




コメント