歴史を知れば、大河ドラマの演出がもっと楽しくなる
史実と異なる演出にこそ、ドラマの面白さがあるのではないでしょうか
こんにちは のぶたです
今日は、47話「哀しくとも」であった、刀伊の入寇後の陣定に絞って解説していきます。
刀伊の入寇の戦闘については、前回の動画を御覧ください。
なお、次回は、エピローグとして、生き残った登場人物のその後を取り扱う…といったところでしょうか。
【刀伊の入寇後の公卿会議】
寛仁三年(1019年)に刀伊の入寇が起こりました。
刀伊は3月28日に対馬に、4月7日に九州に上陸しました。
大宰権帥として九州にあった隆家は、朝廷とロバート実資に報告を上げつつ、撃退の戦に討って出ます。
九州では4月13日まで戦が続き、刀伊を撃退して追撃の船まで出したわけです。
朝廷が刀伊の入寇の第一報に接したのは、4月17日でした。
4月18日、公卿の会議が開かれます。
ロバート実資は道長と意見を交換してから会議に向かったため、大幅に遅刻しました。ドラマでもありましたね。
ドラマでは要所の警固はすべてロバート実資の意見でしたが、
原作(史実)では北陸道以外を警固することは、実資が到着する前に決まっていました。
4月20日、公卿たちは隆家からの続報が届かないことに憤っていました。
一方で、原作(史実)の道長は、
翌々日にせまった賀茂祭をどこで見物しようかなということばかり考えていました。
4月21日、朝廷は神頼みの使者を諸国に派遣しました。
4月25日、隆家からの報告が朝廷に届き、公卿たちは危機を乗り切ったことを知りました。
なお、隆家からの報告は16日付です。
4月27日、隆家からの報告をもとに公卿会議が開かれました。そこでの決定内容は以下のとおりです。
・捕虜が刀伊なのか高麗人なのかを決定して報告すること。
・捕虜と捕獲した兵器を京に進上する必要はないこと。
・筑前の四王寺で御修法(みしほ)を行うこと。
・逃げてきた対馬島司に護衛を付けて、対馬に戻らせること。
・防人と兵糧を準備すること。
5月3日と4日、先日決定した返事を大宰府に送りました。
5月24日、隆家からの手紙がロバート実資に届きました。差出しの日付は10日です。
手紙には、刀伊を追撃した大宰府の「やむことなき武者」たちの船が帰還してないので心配していること。
軍船や兵器を製造して、要所の警固を固めることが書いてありました。
6月29日、ようやく隆家たちの褒美を決める会議が開かれました。
あ、前提ですが、隆家は自分を除く11人の軍功者を報告しています。
その後のドラマの展開は、原作(史実)をかなり忠実になぞっています。
ドラマのように、行成と公任は、勅符が届く前の戦闘だったから褒賞すべきではないと言います。
それに対する実資の反論を、ドラマのロバート実資はほぼ忠実に言い尽くしました。
実資の反論の現代語訳を、ドラマの監修の倉本一宏さんの本から引用します。曰く、
「勅符が到ったかどうかを論じてはならない。たとえ行賞を募っていなくとも、
勲功が有れば賞を賜うことに何事が有ろうか。寛平六年(八九四)に新羅の凶賊が対馬島に到り、
島司文屋喜友が撃退した時にも賞を給わった。まして今回は、刀伊人が人民千余人を拉致し、
数百の人や牛馬を殺害し、また壱岐守理忠(まさただ)を殺した大事件である。
それを追い返し、刀伊人を射殺したのであるから、やはり賞が有るべきである。
もし賞を与えなければ、今後は奮戦する者がいなくなるであろう。」
と、この長いセリフを言い切らなければならない秋山さんも大変でしたよねえ。
そして、まず斉信が実資に同調して、公任や行成も折れて、褒章を与えることになりました。
しかし、ドラマでもあったように、命をかけて戦った者のなかで褒賞されたのは、大蔵種材一人でした。
隆家でさえも何の褒章もありませんでした。
ドラマではありませんでしたが、実は、隆家は刀伊の入寇から半年後の11月に、辞表を叩きつけています。
外敵との命をかけた戦いを目の当たりにした隆家には、自分に褒賞をせず、
命をかけた人々にも報いることのない朝廷公卿たちは、どのように映っていたのでしょうか。
光る君へも、次回でいよいよ最終回となります。最後まで楽しみですね。特に倫子ちゃんが!
あ、ここまでこの動画を見ていただけたのでしたら、ぜひ高評価とチャンネル登録をお願いします。
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ありがとうございました
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