光る君へ、ついに完結しましたね。一年間ありがとう。
最後は、道長が亡くなった万寿4年(1028年)段階で生き残った登場人物それぞれのエピローグを紹介します。
ただし、まひろ(紫式部)は史料がないこともあり、ドラマの設定にまかせます。
藤原為時
生没年不詳ながら、1028年前後に亡くなったと考える本もあります(『光る君へ〈紫式部とその時代〉』)
史料的に確実な記録は1019年のもので、1028年には80歳以上と推定されるので、大往生ですね。
ききょう(清少納言)
晩年は謎につつまれています。昔は没落したと言われていましたが、今はそんなことはないと言う意見が主流のようです。
鎌倉時代の説話ですが、『古事談』に、1017年に兄弟の致信が殺害されたときに清少納言も同居していた
とあるのが、清少納言の最後のエピソードになります。
源倫子
道長の死後、25年ほど生きて、1053年に約89歳の人生を閉じます。
娘の彰子も生きているし、息子の頼通も摂関であり続けているので、まあ安らかな余生だったと思います。
ドラマの最終話でまひろとどうなったのかは、この動画を作っている時点では分かりませんが…ドキドキ。
源明子
こちらも、道長の死後、21年ほど生きて1049年に、おそらく80歳以上の人生を終えます。
明子のほうは、息子たちが不遇な上に素行も悪いので、あの性格を変えない限りは安らかな老後はおくれなかったでしょう。
ロバート実資
道長の葬送の様子を日記『小右記』に書き残したあと、少なくとも約83歳の1040年まで日記を書き続けます。
そして道長の死後18年目の1046年に、約89歳の人生を閉じます。生ききりましたね。
藤原公任
道長が死んだときには、平安京の北の山際の長谷の解脱寺に引きこもってすでに出家しています。
そして、都会の喧騒から離れた長谷におそらく住み続け、道長の死後13年目の1041年に解脱寺で約75年の人生を閉じます。こちらも安らかな老後だったのでしょう。
藤原斉信
道長の1歳年下で、道長が死んだ時点で約61歳、その後はもう出世することはありませんでした。
道長の死後7年目に「病無くして死す」と、突然死したようです。ヒートショックでしょうか。
藤原行成
ある意味番外編。道長が死んだ日に死にました。
みんな道長の臨終で数ヶ月の間ドタバタしていたので、まったく注目されない最後でした。
体調を崩してからわずか4日後にバタッと倒れて死んだので、みんな的にもノーマークだったんだと思います。
藤原彰子
道長の死後は、もしかしたら最強キャラです。道長が死ぬ2年前に出家して、上東門院という女院になってるし、国母として国を支え、母として二人の天皇を支え、姉として摂関頼通を支え、娘として倫子を支え…と、存在感がヤバすぎです。約56歳までに二人の息子に先立たれているのが悲しい所でしょうか。
道長の死後48年目の1074年に、約86歳で亡くなります。
赤染衛門
ダンナの大江匡衡はすでに死んでいますが、赤染衛門は長生きです。
道長の死後も、ずっと倫子や彰子との関係が続きます。
いつ死んだのかは不詳ですが、1041年に弘徽殿女御十番歌合で詠ったのが、おそらく最後の記録です。
藤原隆家
道長の死後、なにげにもう一度大宰権帥になります。
敦康親王もすでにいないので、道長が死んだといっても、隆家が政治の中心にくることはありません。
道長の死後18年目の1044年、元旦というおめでたい日に、約64歳で亡くなりました。
藤原頼通
道長がいなくなって、ようやく独り立ちします。周りのおっさんたちからは、全然信頼されてませんが…
50年以上摂関を続けましたが、後につなげることができませんでした。
おそらくは失意のまま、道長の死後48年目の1074年に約81歳で亡くなります。姉の彰子が死ぬ半年ほど前のことでした。
藤原賢子
いろいろと恋を重ねた後、後冷泉天皇の乳母となったことにより、母の紫式部をはるかに超えて従三位となります。ドラマのまひろと同様に、少なくとも2回は大宰府に行きます。
確認できる最後の史料は1073年のもので、75歳ぐらいだったと考えられます。長生きできましたね。歌人としても名高く、全体的に充実した人生をおくれたのではないでしょうか。
藤原教通
長い間、兄頼通の後塵を拝し続けます。約72歳にしてようやく兄頼通を継いで後冷泉天皇の関白となりますが、わずか2日後に後冷泉天皇は崩御します。次は後三条天皇が即位しますが、後三条天皇は藤原氏を外戚に持たない天皇です。こうして、教通は父道長や兄頼通とは違い、力を持たない関白となってしまいました。
道長の死後49年目の1075年、約79歳で亡くなります。姉彰子と兄頼通の翌年のことでした。
藤原頼宗
大人になってもできが悪く暴力的で、ロバート実資に「頭が、、、じゃねえの!?」とか、「暗闇を目の前にして何も見えない人みたい」とか、さんざんに罵られます。
それでも右大臣にはなり、道長の死後38年目の1065年に約72歳で没します。倫子の子どもたちよりも早い死でした。
藤原能信
頼通たちの対抗勢力であり続けるのですが、なにぶん勝てないので、道長の子なのに死ぬまで大納言です。道長の死後38年目の1065年に約70歳で没します。兄弟揃って、長生き競争にも勝てませんでした。
なお、死後は娘(養女)の子が白河天皇になったので、当時の価値観からすれば、結果オーライです。
脩子内親王
道隆と伊周と一条天皇も亡くなった後は、政治的には空気なので、あまりエピソードが残っていません。
道長が死んだときにはすでに出家していて、道長の死後20年目に約53歳で死去しました。
財源は確保してもらっていたので、落ち着いた人生をおくれたと信じたいですね。
藤原道雅:伊周の長男
道長生存中はバイオレンスとソングとギャンブルと女性関係で、一昔前のインディーズロッケンローラみたいだった荒三位道雅も道長の死後のエピソードは少なくなります。
八条の山荘で歌人としてゆっくりと過ごしていたようです。道長の死後26年の1054年に、約62歳で亡くなります。
あかね(和泉式部)
道長が死ぬ4年前に娘に先立たれた和泉式部の最後の記録は1027年のものです。
道長の死後の和泉式部はまったく分かっていません。
宰相の君:道綱の娘で彰子の女房
後一条天皇の乳母だし、もともと良家の娘さんなので、いい人生をおくったと思われます。
道長の死後は、1036年の後一条天皇崩御の後に出家しています。その後はよく分かりません。
敦明親王:三条天皇と娍子の子
太上天皇に準じて院号宣下を受けて、小一条院となっているので経済的には困らなかったでしょう。
道長の死後23年目の1051年に約57歳で崩御して、道長の家系に祟る怨霊となります。
藤原威子:道長と倫子の娘で、後一条天皇の中宮
道長の死後8年目に夫の後一条天皇を亡くし、その半年後に威子も約37歳で崩御します。
倫子の子のなかでは、嬉子・妍子とならんで短命……とは言っても、当時ならめずらしくないですね。
隆姫女王:頼通の妻
光る君への登場人物のなかで、おそらく一番の長生きです。
若いころは「隆姫ちゃんひとすじ」とか言っていた頼通も、隆姫女王をほっといて他の女に通うようになります。
道長の死後59年目の1087年に約92歳で亡くなります。もう院政期に入っていますね。
後一条天皇:彰子の長男
道長が死んだときの天皇ですが、まあ若いので、彰子や頼通の力が強いです。
道長の死後8年目に、約28歳という若さで崩御します。
後朱雀天皇:彰子の次男
年齢のわりには子沢山で、ぱっと見でも8人は子どもができます。後朱雀天皇が崩御したときに約27歳で即位して、フツーに天皇をつとめます。
道長の死後17年目の1045年に、約36歳で崩御します。その直前に頼通の反対を押し切って尊仁親王(後三条天皇)を東宮としてしまい、摂関期終焉の種をまいてしまいました。
祇子女王:敦康親王の妻
敦康親王が崩御したあと、どこかの時点で出家します。
道長の死後25年目の1053年に没しました。
ちぐさ(菅原孝標の娘)
『源氏物語』にあこがれ、恋にあこがれ、宮仕えにあこがれと、女子女子しい人生をおくります。
ちぐさ約50歳の1058年に同い年の夫を亡くし、翌年ごろに『更級日記』を書きます。
その後の人生は分かっていません。
ここまでこの動画を見てくださったみなさんと、同じドラマを最後まで楽しめて嬉しいです。
またいつか、平安時代大河ドラマが見られる日がくるといいですね。
あ、ぜひ高評価とチャンネル登録をお願いします。
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光る君へ解説シリーズ、最後までありがとうございました
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