豊臣秀長:大河ドラマ「豊臣兄弟」も楽しくなる日本史人物事典01
- 順大 古川
- 8月18日
- 読了時間: 22分
更新日:10月18日
学界の研究動向にもこだわった人物辞典です。年齢感覚がつかみやすいように、およその満年齢で記していきます。
今後随時追記していきます。
【目次】
豊臣秀長(とよとみひでなが):仲野太賀
まずは、NHK公式の紹介を引用して、大河ドラマ上での設定を確認しておきましょう。
天下人・豊臣秀吉の弟。登場時の名は小一郎(こいちろう)。
兄の天下取りをいちずに支え続けた「天下一の補佐役」といわれている。(NHK公式)
キャスト:仲野太賀(なかのたいが)
1993年東京都出身。2006年俳優デビュー。今年、連続テレビ小説「虎に翼」でヒロインの夫・佐田優三役を演じて大きな注目を浴びた。その後「新宿野戦病院」で主演の高峰亨役を演じて話題に。その他、近年の出演ドラマは「拾われた男」(主演・松戸諭役)、「あのコの夢を見たんです。」「コントが始まる」「#家族募集します」「初恋の悪魔」「ジャパニーズスタイル」「いちばんすきな花」など。映画では『泣く子はいねぇが』『すばらしき世界』『あの頃。』『ゆとりですがなにか インターナショナル』など。11月に主演映画『十一人の賊軍』の公開が控えている。(NHK公式)
<大河ドラマ出演歴 6回目>
第46作 「風林火山」(2007年)…上杉龍若丸 役
第48作 「天地人」(2009年)…直江景明 役
第50作 「江~姫たちの戦国~」(2011年)…豊臣秀頼 役
第52作 「八重の桜」(2013年)…徳富健次郎(徳富蘆花) 役
第58作 「いだてん~東京オリムピック噺~」(2019年)…小松勝 役
(NHK公式)
解説:実際の豊臣秀長(1540-1591)
豊臣秀吉の異父弟です。「小竹」とか「小一郎」とか「美濃守」とか「大和納言」とか呼ばれました。最後の「大和大納言」が一番有名です。なお、一時期「長秀」を名乗っていたことがあります。
秀長は秀吉の片腕として天下統一に貢献した人で、「秀長がもっと長生きしていれば、、、」と、その早い死が惜しまれた人です。
天正五年(1577年)約37歳
播磨攻略に活躍して、但馬竹田城主となる。
天正八年(1580年)約40歳
但馬出石城主となる。
天正十年(1582年)約42歳
本能寺の変後、山崎の戦いで軍功をあげる。
従五位下美濃守に叙せられ、播磨・但馬の領主となる。
姫路城に居住する。
天正十一年(1583年)約43歳
賤ヶ岳の戦いで戦功を上げる。
天正十三年(1585年)約45歳
紀伊国根来寺の攻略に戦功を上げる。
紀伊・和泉を領する。
豊臣秀吉の四国平定に大いに功を上げる。
大和も加増されて、郡山城主となる。
天正十五年(1587年)約47歳
豊臣秀吉の九州平定に1万5千の兵を率いて従軍する。
8月、従二位大納言に叙される。それゆえに、「大和大納言」と称される。
天正十八年(1590年)約50歳
正月、病にかかる。
天正十九年(1591年)約51歳
正月22日、大和郡郡山城で死去。享年52。
参考文献:
【解説2:豊臣秀長はホントに秀吉の弟?? 最新の学説をわかりやすく解説します】
天下人豊臣秀吉の優秀な補佐役の弟、豊臣秀長――彼は長年、歴史の本やドラマで「秀吉とは父親が異なる異父兄弟だった」と語られてきました。
しかし最新の研究は、これを否定しています。
秀長は異父弟ではなく、秀吉と同じ父を持つ“実の弟”だったのです。この衝撃の事実は、大河ドラマの時代考証をつとめている、黒田基樹氏の最新研究に基づいています。
この真実を知れば、来年の大河ドラマ『豊臣兄弟』は、まったく違う見方ができるはずです。
今日はその根拠を、3つの史料を一つずつ検証しながら徹底的に解説していきます。この動画を見れば、みなさまに秀長と秀吉の真の兄弟関係を納得してもらえると思います。
こんにちは、のぶたです。「本気すぎる日本史解説」シリーズへようこそ。この動画シリーズでは、複雑な学界の最新研究を分かりやすく紹介していきますので、最後まで楽しんでいってください。高評価とチャンネル登録も押していただけると嬉しいです。
さて始めましょう。まもなく放送が始まる大河ドラマ『豊臣兄弟』。このドラマでは戦国の世に天下を掴んだ豊臣秀吉と、その才能あふれる弟、豊臣秀長。この二人の兄弟の物語が描かれます。弟の秀長は、兄秀吉が天下人となるまでの道のりを常にそばで支え続けた、まさに影の立役者でした。その献身的な働きぶりから、歴史好きの間では「秀吉の最高の補佐役」「秀長があと10年生きていたら江戸時代はなかった」などと言われることがあります。
しかし、秀長の人生を語る上で、長らく疑問視されてきたことが一つありました。それは、秀長と兄・秀吉との血縁関係です。
歴史の本やドラマなどで、これまで語られてきた通説では、秀長は、兄の秀吉とは父親が違う、異父兄弟だとされてきました。秀吉のほうの実の父は木下弥右衛門、そして秀長のほうの実の父は、その秀吉の母、この動画では「大政所」と呼びますが、その母の大政所が再婚した相手、「筑阿弥」という別の男だと。
しかし、この通説には、実は大きな問題があったのです。
◇秀吉の父親は誰だったのか?:基本となる史料たち
まずは、豊臣秀吉の父親から考察していきます。なぜ秀長ではなく、兄・秀吉の父親から見ていくのか?この疑問は、話が進めばきっと納得していただけるはずです。
通説では、秀吉の父は実父が「木下弥右衛門」、そして継父が「筑阿弥(竹阿弥)」だとされています。ですが、実はこれらは、当時の一次史料、つまり、秀吉が生きていた時代に書かれた史料からは、全く確認されていないのです。
これらの情報は、秀吉の死後、ずっと後の時代になってから成立した、後世の史料をもとにした解釈に過ぎません。
では、一体どのような史料があるのか?古いものから年代順に見ていきましょう。
1. 『太閤記』(成立:1625年)
豊臣秀吉が亡くなってから27年後、豊臣家が滅びてから10年後に成立しました。著者は小瀬甫庵(おぜほあん)です。この書によれば、秀吉の父は、尾張愛知郡中村の住人で、織田信長とは別系統の清須織田家に仕えていた筑阿弥だとされています。そして、秀吉が10歳から20歳頃に筑阿弥は亡くなった、と書かれています。
ここで注目すべきは、通説で「実父」とされる弥右衛門の名前が、この一番古い『太閤記』には一切出てこないということです。
2. 『祖父物語』(成立:1642年)
次に古い史料が、この『祖父物語』です。この書にも、秀吉の父は筑阿弥と書かれています。彼は尾張愛知郡の狭間村(はざまむら)の出身で、清須に住んでおり、そこで秀吉が生まれたとされています。
ここまでの記述について、大河ドラマ監修の黒田氏はこう指摘しています。『太閤記』の中村という記述と合わせると、「秀吉は狭間村で生まれ、その後、中村に住んだ」と考えれば、辻褄が合うのではないかと。
ですが、やはりここでも、弥右衛門の名前は登場しません。
3. 『太閤素生記』(成立:1678年まで)
そして、最も有名な、そして通説の基となっているのが、土屋知貞(つちやともさだ)が書いた『太閤素生記』です。
この書にいたって、ついに弥右衛門が登場します。これによると、秀吉の父は中村の住人で、木下弥右衛門といい、織田信長の父の織田信秀に鉄砲足軽として仕え、1543年に亡くなったとされています。
そして、秀吉の母、大政所についても書かれています。彼女は、弥右衛門との間に、秀吉の姉と秀吉の二人をもうけた後、弥右衛門の死後も中村に住み続けたと。
さらに、この後に、通説で「継父」とされる竹阿弥(筑阿弥)についての記述が続きます。彼も弥右衛門と同じ中村の生まれで、織田信秀に同朋衆として仕えていたと。そして、弥右衛門の死後、筑阿弥は大政所と再婚し、その間に、秀長と朝日が生まれたとされているのです。
ついに、秀長が登場しました。そして、秀長と朝日姫は、秀吉とは父が異なる兄弟だと明記されているわけです。妹の朝日とは、小牧・長久手の戦いの後に、家康との和睦のために、秀吉が夫と離婚させて家康に嫁がせたと言われる、あの朝日姫のことです。彼女の最新の研究については、また別につくる秀吉の動画でお話しましょう。
この章では、比較的後世に成立した『太閤素生記』が、秀吉・秀長は父親違いの兄弟であるという通説の源泉となっていたことが分かりました。
◇史料批判:史料の矛盾を検証する
ここまでを一旦整理してみましょう。
古くに成立した『太閤記』と『祖父物語』は、秀吉の父を筑阿弥としています。
時代が下ってから成立した『太閤素生記』は、秀吉の実父を木下弥右衛門、継父を筑阿弥としています。
『太閤素生記』は、秀吉の父を木下弥右衛門、秀長の父を筑阿弥としています。
この3つの史料のうち、どれが正しいのか。一般的には、古い史料のほうが信頼性が高いというのが、歴史学のセオリーです。とはいえ、黒田氏は、どれか一つを決定的に正しいと断定するのは難しいと言います。この点が、長らく秀吉と秀長の出自を不明確にしていた原因でした。
しかし、それぞれの史料の記述を深く掘り下げていくと、驚くべき事実が浮かび上がってきます。
1. 『太閤素生記』の弥右衛門の記述の矛盾
『太閤素生記』には、秀吉の実父とされる木下弥右衛門は織田信秀の鉄砲足軽をしており、1543年に亡くなったとあります。黒田氏によると、他の諸資料と突き合わせて検討しても、実父が1543年に死去したというのはおよそ信用できるといいます。
ただし、この『太閤素生記』の記述には初歩的な矛盾がありますよね。
そう、鉄砲が日本に伝わったのは、まさに1543年、種子島に漂着したポルトガル人によってでした。その年に亡くなった弥右衛門が、すでに鉄砲足軽として織田信秀に仕えていたというのは、時系列が合いません。
時系列といえば、『太閤素生記』のストーリーにある、秀長が筑阿弥の子だというのも奇妙な話なのです。弥右衛門の死去が1543年ならば、大政所が筑阿弥との間に秀長をもうけたのは1543年以降となりそうなものですが、実は、秀長の生年は、比較的近年の研究により、1543年以前だと確定しているのです。
奈良国立博物館が所蔵する1590年の文書に、秀長が自ら「秀長五十一」と記した部分があり、そこから逆算して、秀長は1540年生まれだったことがわかっています。なお、秀吉は1537年生まれなので、秀長は兄の秀吉より3歳年下にあたります。
つまり、秀長は、秀吉の実父が亡くなる1543年より前に生まれていたのです。やはり、継父が秀長の父であるとする『太閤素生記』のストーリーは、不自然です。
ついでに言うと、黒田氏は「木下」という名字も信用できないということから、『太閤素生記』にある「弥右衛門」という名もそのままでは信用できないと言います。なお、秀吉の「木下」苗字については、後日作成する秀吉の動画のほうでお話します。
結局のところ、秀吉の死から時間がたって成立した『太閤素生記』の記事で信用できるのは、他の資料でも裏付けられる”秀吉実父が死去したのは1543年である”という部分に絞られます。
2. 『太閤記』と『祖父物語』の筑阿弥の記述の整合性
一方、『太閤記』と『祖父物語』が記す、秀吉の父筑阿弥についてはどうでしょうか。
黒田氏は、筑阿弥が信長の同朋衆だったというのは時期があわないことや、その他の検討などから、筑阿弥は信長ではなく、『太閤記』が言う信長とは別系統の「清須織田家」に仕えていたという記述が事実に近いと考えます。
成立が早いこれらの書は、筑阿弥の出身地や身分職業にはっきりしない部分は残るものの、比較的整合的に理解できそうです。
◇導き出される結論:秀長と秀吉は父を同じくする兄弟だった
こうして検証を進めていくと、皆さんはきっとこう思うはずです。「結局、秀吉の父親は、弥右衛門だったのか、それとも筑阿弥だったのか?」と。
それでは、一気に進めますよ。
ここまでの史料批判を基礎にして、黒田氏は、成立が最も遅く、矛盾点も多い『太閤素生記』にある、「弥右衛門」というあいまいな情報を退けます。
その結果、最も成立が早い『太閤記』と『祖父物語』にある筑阿弥という人物が、秀吉の実の父親であった可能性が高い、という結論を導き出しました。
すなわち、秀吉の父親の実像とは、尾張国に住み清須織田家に仕えた筑阿弥であり、筑阿弥が大政所と結婚して、秀吉の姉と秀吉と、秀長と朝日姫が生まれた。そして、筑阿弥は秀吉が数え7歳で、秀長が数え4歳となる1543年に死去した、となるのです。
こうして、秀長が秀吉と父を同じくする兄弟であることが導き出されました。この結論は、母親の大政所が1543年以降に誰かと再婚していたとしても、くつがえりません。だって、秀長は筑阿弥が死去する1543年より前の、1540年に生まれたのですから。
◇エピローグ:大河ドラマ『豊臣兄弟』の描く真実
この事実は、通説の「異父兄弟説」を根底から覆します。
1540年生まれの秀長。
1543年に死去した秀吉の父は、筑阿弥。
通説では、秀長は秀吉の母が再婚した相手との間に生まれたとされてきましたが、通説ではいくつかの史料を整合的に説明できません。
したがって、秀長と朝日姫は、秀吉の異父兄弟ではなく、秀吉と同じ父親、同じ母親を持つ、実の兄弟だったと考えるのが最も妥当なのです。
長らく謎とされてきた豊臣兄弟の血縁関係。学術的な研究によって、秀長は秀吉の「異父兄弟」ではなく、「同父同母」の、れっきとした実の弟であったことが明らかになりました。
来年の大河ドラマ『豊臣兄弟』は、きっと、この真実に基づいた、真の兄弟の絆の物語を描いてくれることでしょう。
誰も知らなかった、豊臣兄弟の新しい物語。歴史の教科書が教えてくれなかった彼らの人生を、ぜひその目で確かめてみてください。
【豊臣秀長物語:最高の補佐役があと十年生きていれば…】
「豊臣秀長があと10年長生きしていれば、江戸幕府はなかった」
多くの歴史好きが語るこの言葉。それは言いすぎでしょうか? それとも……?
さて、誰もが知る天下人、豊臣秀吉。その豪快な成功の裏には、いつも一人の控えめで温厚な弟がいました。それが、豊臣秀長です。
秀吉の補佐役だった秀長は、 派手な戦功よりも、常に『調停役』として力を発揮しました。
秀長が急死した後のタイミングで豊臣家が内部分裂と混乱を極める事実から、
秀長が、短気な秀吉と反発する大名たちとの間を取り持った、豊臣政権のバランサーだったことがうかがえます。
この動画では『最高の補佐役』豊臣秀長の人生をたどり、秀長が豊臣政権にとってどれほど不可欠な存在だったのかを徹底的に解説します。
そして最後に、あなた自身で「もしも…」の評価を下してみてください。
第一章:兄の背中を追って〜農民から武士へ〜
天文9年、西暦1540年に、秀長は尾張国、今の愛知県で生まれました。秀吉より3歳年下の弟です。
別の動画で最新の学説を解説しましたが、秀吉と同じく父親は筑阿弥で、母親は大政所、大河ドラマでは「なか」です。
豊臣兄弟の家は貧しく、日々の暮らしに精一杯の農民生活でした。
兄の秀吉は、幼い頃からじっとしているのが苦手な、まるで落ち着きのない、夢を追いかける情熱の塊のような人物だったと伝えられます。
そんな秀吉は、10代半ばで「侍になりたい!」と家を飛び出したそうです。
一方、弟の秀長の幼いころの記録や物語はありません。けれど、想像できることがあります。
兄の秀吉が夢を追って家を出た後も、弟の秀長は家業を手伝い続けたので、秀長はむしろ現実的で、地に足のついた性格だったのではないでしょうか。
さて、秀長が歴史に登場するのは1574年です。織田信長の一代記の『信長公記』の1574年の記事に伊勢長島の一揆と戦ったと言う記録があるのです。
秀長数え35歳のころですね。
それ以前の秀長について、広く知られる兄・秀吉の物語をもとに想像をふくらませて、秀長物語をイメージしてみましょう。
さてもさても、秀長20代前半の頃。突然、兄・秀吉が立派な侍の姿で家に帰ってきました。織田信長に仕官し、少しずつ認められていた頃です。
秀吉は、小一郎と呼ばれていた弟に熱く語りかけました。
「小一郎! お前も武士にならないか?」「俺にはお前の冷静な判断力と、優しい人柄が必要なんだ!」
秀長は迷いました。
農民としての静かな暮らしを捨てるのか? 兄の無謀な野望についていくのか?いつ死ぬかわからない戦場に身を置くのか?
でも、秀吉の、キラキラと輝く瞳と、まっすぐな情熱を見て、秀長は決意しました。“兄の側で影となり、兄の仕事を支えよう”と。
こうして、豊臣秀長の「補佐役」としての人生がスタートしました。
秀長が取り組んだのは、武士として派手に活躍するよりも、地道な裏方の仕事でした。兵の食料の確保や、戦に必要な武器や物資の調達、情報収集などです。
「戦は、派手な武将ばかりが褒められる。でも、軍勢を支えるのは後方の働きだ」
これは、秀長が兄から言われた言葉でした。秀長はその言葉通り、物資を管理し、兵士たちの士気を高めることに力を注ぎました。
秀吉が「墨俣一夜城」をあっと言う間に築いたという伝説も、資材の調達を一手に引き受け、その成功を支える仕事をした秀長のような存在があってこそ、生まれたのでしょう。
彼こそが、農民出身で家臣団が弱かった秀吉にとって、最高の信頼できる身内、組織の土台だったのです。
第二章:戦場を駆ける冷静な実務家〜最高の信頼関係〜
地道な裏方仕事にはげんだ秀長ですが、秀長の才能はそれだけにとどまりませんでした。
戦場でも、兄を支える有能な軍事指揮官として活躍したようです。
秀吉の出世が加速するにつれ、秀長は重要な戦いに参加していきます。特に有名なのが、1570年の金ヶ崎の退き口から小谷城攻めまでの、浅井長政・朝倉義景討伐です。
まず、織田信長は北陸の朝倉義景を攻めようとしましたが、妹婿の浅井長政が背後で裏切りました。
前後を敵に挟まれた信長は、絶体絶命の死地から命からがら撤退しました。これが金ケ崎の退き口と言われるものです。
このとき、秀吉や明智光秀などは、味方の撤退を助けるため、追いかけてくる敵を食い止める一番危険な「殿(しんがり)」、つまり最後尾の役目を務めたといいます。
この撤退戦の混乱のさなか、秀長も兄の側近として命がけの撤退に関与したと考えられます。
一度は逃げた織田信長は急いで体勢を立て直し、そこから三年がかりで朝倉義景を滅ぼして、そのまま小谷城に籠もる浅井長政を攻め立てます。
秀吉の大活躍などによって浅井長政は滅ぼされ、しかも信長の妹のお市とその娘たちを確保できました。
秀吉はこの功績によって、信長から12万2300石の領地を賜るのですが、秀吉はその中から8500石をも弟の秀長に分け与えています。
重臣の浅野長政や蜂須賀小六でさえも3000石とちょっとだったので、これまでの秀長の功績がいかに大きかったのかが分かります。
秀吉が信長から絶大な信頼を得た裏には弟・秀長の冷静な補佐があり、もしかしたら大きな武功もあったのかもしれません。
次に秀長の才覚が垣間見えるのは、本能寺の変のときです。
このころ、秀長は5000もの兵を率いる武将となっていて、秀吉の備中攻めにも参加していました。
しかし、1582年6月、本能寺の変で織田信長が明智光秀に討たれました。 この情報をいち早くキャッチした秀吉は、“中国大返し”という大逆転劇に打って出ます。 けれど、何万人という軍勢が、雨の中を一気に東へ。兵糧、水、靴、船、道案内、休息地—— 雨で川が増水したら? 進軍が遅れたら?。 誰が、その現実的な段取りを作り、狂いなく回すのか?
補給路を押さえ、地元勢力との交渉をまとめ、兵が倒れないリズムを作る。
こうした複雑な工程を最大効率で稼働させるには、秀吉軍の首脳陣の綿密な連携プレーが不可欠ですが、その中心の一人に秀長がいたことは間違いありません。
なぜそう言い切れるのか。
それは、明智光秀を倒した後に秀長が出した、ある手紙が残っているからです。
その手紙には、秀長軍が中国大返しで駆け抜けるときに、道中の丹波国氷上郡を支配していた夜久主計頭(やくかずえのかみ)という人物が行った下準備に対する感謝が記されていました。
これは、秀長も中国大返しの段取りを指揮していた証拠にほかありません。
歴史は、派手な勝利の裏に、静かな“工程表”を隠しています。 “最悪を想定し、最善を準備する”という仕事は、地味だけど強い仕事です。
イベントや会議の前日、資料の印刷、器材チェック、発表順の確認……。 当日、みんなが安心して参加できる段取りを丁寧に組み立てる人物やチーム。 ——みなさんの周りにも、そういう人、いますよね。
そして、明智光秀との雌雄を決する山崎の戦いに突入します。
その戦いに向けて、「ここを取ったほうが勝つ」と言われた勝負の別れ目となる場所。そう、天王山を、秀長は黒田長政たちとともに押さえたのです。
天王山という地の利を奪われた光秀軍は、1日にして敗北します。つまり、ここでも秀長は重要な働きをしているのです。
だからこそ、山崎の戦い後の清須会議で、秀長には丹波の一郡が与えられたのです。なんと、秀長は歴史に登場してから10年も経たずして、戦国領主となったのです。
その後も、秀長は鳥取城の兵糧攻めや、紀州攻めにも参戦。さらに、四国平定では総大将を任され、見事に勝利を収めます。
総大将というのは、軍の全てを指揮する、最も重要なポジションです。
秀長は、冷静沈着な判断力と、兵士たちから慕われる人柄で、数々の歴戦の武将たちをまとめ上げ、大きな成果を上げたのです。
そして、それらの功績により、約110万石と言われる大和、紀伊、和泉などの広大な領地を与えられ、当時の大名の中でもトップクラスの存在となります。
第三章:慈悲深い大名〜「人が集まる町」を作る政治〜
しかし、秀長が本当にすごかったのは、その軍事力だけではありません。
領地を治める際も、秀吉のように強引なやり方をするだけではなく、温厚な人柄と優れた内政手腕で、領民を大切にしたといいます。
秀長は大和国(奈良)郡山を拠点にします。
秀長が治めた大和国は、巨大な武装集団だった寺社が多く、統治が難しい土地だったのですが、彼の誠実で優しい政治により、うまく治められたそうです。
政治で秀長が重視したのは、経済の発展と人々の暮らしの安定です。そのために、暮らしのインフラを整備します。
年貢の取り方を整え、無理のない負担で、農民や商人が息をしやすい制度を作る。彼のもとでは、裁きが穏やかで、税が公正、そして約束が守られるという評判が広がります。
あ、もちろん抵抗勢力を武力で鎮圧するような、厳しい政治もしていますよ。
たとえば、昔からの利権を貪る寺社の武器を取り上げたり、経済的な特権を取り上げたりしています。
秀長は、日本で最も統治の難しい国の一つを平定した極めて有能、かつ現実的な統治者でした。
目標達成のために「ソフト」な権力(経済的インセンティブ、公正な法)と「ハード」な権力(寺社の武装解除、強権的な経済集中)の両方を的確に行使した、卓越した政治家だったのです 。
江戸時代の学者、津阪東陽は、その著書『聿脩録』で、豊臣秀長をこう評価しました。
「人となり温恭にして長者の風あり。関白、法を用うること過厳なり。毎に寛仁をもってこれを救い、諸侯倚頼す」と。
これは、次のような意味になります。
「豊臣秀長は温厚で、リーダーとしての風格もあった。関白の秀吉は法律をきびしく守らせたが、秀長はそのたびにおおらかな心をもって人を救ったので、大名たちは秀長を頼った」と。
第四章:豊臣政権の「大黒柱」〜早すぎる死が残した影〜
秀吉は、時に勢いで突っ走ったり、怒りっぽい一面を持っていたと言われます。そんな兄に対して、秀長は、遠慮なく意見を言える、ただ一人の人物でした。
また、秀吉が大名と対面するときには、必ずと言ってもいいほど秀長もそばにいました。
例えば、秀吉の甥である豊臣秀次が、ある失敗で秀吉の怒りを買ったときも、間に入って仲裁し、秀次の信頼回復に力をつくしたと伝わります。
また、豊後国の大名・大友宗麟が書き残した有名なエピソードがあります。
大友宗麟が秀吉に挨拶をするために大坂城に来たとき、秀長は大友宗麟の手を握ってこう言ったのです。
「ご安心ください。内向きのことについては千利休が、表向きの政治のことは秀長がうけたまわります。あなたのためになりますので、何でも相談してください」と。
「内々の事」、つまり文化や個人的な相談事は茶人の千利休に、「公儀の事」、つまり政治や軍事の公的なことは私に相談してくれ。
この言葉からも、秀長が政権の公的な大黒柱だったことが分かりますよね。
激しい性格の人がトップに立つほど、そばで空気をあたため、角を丸くする人が必要です。兄・秀吉は天才的な仕掛け人で、まさに炎のような人間でした。それに対して、弟・秀長の最大の武器は、人望の厚さ。部下からも、ライバル大名からも、「秀長殿は温顔で邪心がない」と慕われていました。
この人柄こそが、秀吉の家臣団や、全国の大名たちのパイプ役として、豊臣政権を揺るぎないものにした最大の要因なのです。 最高の補佐役——この言葉は、ただの賛辞ではなく、役割の名前なのです。
しかし、兄の夢が最高潮に達したそのとき、秀長の体は限界を迎えていました。1590年の小田原征伐では病を理由に畿内の留守居を務めたとも言われます。
度重なる戦と三国の統治、政権を支える重責により、秀長は病に倒れます。
そして、天下統一を見届けた翌年の1591年、彼は大和郡山城で、数え52歳の若さで亡くなってしまうのです。
若いころの貧しい生活からの知恵なのか、豊臣家の備えとしてなのか、秀長は莫大な財宝を蓄えて残していました。
秀長の死は、豊臣家にとって計り知れない損失でした。
秀長がいたころの豊臣政権は、内部の対立や大名間の不満を、秀長の卓越した調整力と人望で、うまく抑えられていました。
しかし、彼がいなくなると、どうなったでしょう。
兄・秀吉は、自分の判断に意見できる弟・秀長を失い、次第に周りの意見を聞かなくなります。
家臣団は、秀長という緩衝材を失ったためか、いわゆる「武断派」と「文治派」という二つの派閥が生まれるような動きも生じていきます。
そして、秀長と並ぶ政権の要だった千利休が、秀吉の怒りに触れて切腹させられるという事件までもが起きます。
秀長が生きていれば、この悲劇は防げたのではないか、という意見も多いのです。
さらに、秀吉の甥の関白秀次は粛清され、秀吉は晩年に「唐入り」、いわゆる朝鮮出兵に挫折します。
ここで、あの言葉が生まれます。
「秀長があと10年長生きしていれば、江戸幕府はなかったかもしれない」
歴史に“もし”はありません。けれど、想像してみましょう。もし、秀長があと10年生きていたら…と。
秀吉の暴走を止め、家臣団をまとめ、徳川家康などの有力大名との関係を調整し、 外交のテンポは穏やかになり、豊臣家の天下はもっと長く続いたかもしれません。
ただの想像に過ぎませんが、そう言われるだけの“役割”を、秀長は果たしていたのです。
結果だけをみれば、秀長の死からわずか24年後に、豊臣家は徳川家康によって滅ぼされてしまいます。
終章 最高の補佐役が教えてくれること
秀長は、豊臣政権の補佐役として、次のような役割を担っていました。
①兄・秀吉の諫言役
②家臣団のまとめ役
③数国を統治する大名
豊臣秀長は、歴史の表舞台で、派手な主役を演じた人物ではありませんでした。
秀長はスポットライトの当たらない裏方からスタートし、兄・秀吉の「光」をさらに輝かせるために、自ら「影」となって組織を支え続けました。
彼の生涯は、私たちに大切なことを教えてくれます。
それは、「主役」だけが偉いのではない、ということ。
地道な努力と人望、そして冷静な判断力を持つ「最高の補佐役」が、組織全体にどれほど大きな影響を与え、物事を成功に導くのか。
そして、その存在がいかにかけがえのないものか、ということです。
自分の生活を捨て、兄の夢にかけた豊臣秀長。
彼の優しい心と、確かな実務能力は、現代の私たちにとっても、理想のナンバーツーの姿として、輝き続けています。
「秀長があと10年長生きしていれば、江戸幕府はなかったかもしれない」
という言葉を、みなさんは、どう評価しましたか?



コメント