【目次】
平惟仲(たいらのこれなか):佐古井隆之
まずは、NHK公式の紹介を引用して、大河ドラマ上での設定を確認しておきましょう。
「藤原兼家の家司(けいし)。大学頭(だいがくのかみ)や弁官などを歴任。」
平珍材の子です。母はよく分かっていません。
藤原兼家の家司として登場するらしいので、ちょい役だとは思うのですが、年表を見てみると、(大河ドラマでは語られなさそうな)後半生がツッコミどころ満点ですね。
宇佐宮の宝殿に封して怒られたり、腰骨折って死去したりと。。。うーん、馬とか輿とかから落ちたんでしょうかねえ、、、
と思ったんですが、『小右記』とか見てみると、厠(トイレ)で転倒したみたいですね。ヤベ、人ごとじゃない。私たちも気をつけないといけませんね。
なお、「惟仲がケガして死んだ」という第一報が入ったときには、藤原実資は「宇佐宮の祟りじゃね?」ってディスってますね。
これは、大河ドラマでも描かれるかもしれませんね。ネタ枠で。
佐古井隆之(さこいたかゆき)
1978年生まれ、大阪府出身の俳優です。
大河ドラマは初出演です。
平惟仲は、定子に仕える中宮大夫(中宮職の長官)となりました。
7月8日、平惟仲は辞表を叩きつけました。
惟仲が中宮定子に仕えてから二度目の火事で、前回の火事のときは自分のおうちに定子ちゃんが転がり込んできたことを鑑みるに、そろそろ堪忍袋の緒が切れたんじゃねえか、てか、定子ちゃんに見切りをつけたなんじゃね?と、勝手に思っています。
8月9日、定子ちゃんは、引責出家したはずなのにお産が近づいてきたということで、一条院から退去しました。定子ちゃんは、中宮大夫平惟仲に逃げられていたので、平惟仲の弟で、身分が低い平生昌(なりまさ)の宅に移らされました。清少納言は、平生昌の宅は定子にはボロすぎると、さんざん文句を言っています。なお、惟仲がとんずらこいてから後、定子の中宮大夫が任命されていない可能性があるようです。
30回「つながる言の葉」((1002~)1004年)ごろの惟仲
大宰帥として、九州に下っています。妻の繁子もいっしょです。(※黒板伸夫『藤原行成』に従って、惟仲は権帥ではなく帥だったと考えます。かなり珍しいパターンのようです)
長保五年(1003年)11月、大宰帥の惟仲は、宇佐八幡宮の神人に訴えられます。惟仲がめちゃくちゃなこと(宇佐宮宝殿に封をした)をしていたからです。
長保六年/寛弘元年(1004年)3月、宇佐八幡宮の神人がキレまくって、上京してまでさらに惟仲を訴えます。
その6月、惟仲は業務停止命令を出され、さらに12月に大宰帥をクビになります(罪には問われず、中納言はもとのまま)。宇佐八幡宮の神人の訴えが完全に通ったということなので、惟仲はよっぽどひどいことをしていたし、証拠も残りまくっていたし、中央に助けてくれる人脈もなかったということでしょうか。
解説:実際の惟仲・その後の惟仲
荘園絡みで争っていて、ロバート実資と仲が悪いです。
大宰帥をクビになった約3ヶ月後に、九州の安楽寺に参ろうとしたときに、トイレで転んで腰をケガして死にます。寛弘二年(1005年)3月14日のことでした。
クビになったのに、まだ、京に帰ってなかったんですね。帰る準備をしている期間に死んだのか、そのまま九州に留まろうとした矢先に死んだのか。どうなんでしょうね。
こうして、「惟仲がケガして死んだ」という第一報が入ったときに、藤原実資が「宇佐宮の祟りじゃね?」ってディスったわけです。
年表
平惟仲の略年表を示します。年齢は数え年です。
944年:1歳。誕生。
966年:23歳。東宮昇殿。
→肥後守、大学頭、弁官、蔵人頭を歴任。
992年:49歳。参議。
998年:55歳。中納言。
1001年:58歳。大宰帥。
1003年:60歳。従二位。
1004年:61歳。権帥を停められる。宇佐宮宝殿に封をしたことを宇佐宮司に訴えられたため。
1005年:62歳。3月14日、腰を骨折したことが原因で、大宰府にて死去。
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