【目次】
一条天皇(いちじょうてんのう)(懐仁(やすひと)親王)
まずは、NHK公式の紹介を引用して、大河ドラマ上での設定を確認しておきましょう。
66代天皇。道長の甥で、幼くして即位した。入内した道隆の長女・定子を寵愛するが、のちに道長の長女・彰子も入内し、世継ぎをめぐる政争に巻き込まれる。理性の勝った性格の一方、文学が好きで、紫式部の源氏物語に強い興味を抱く。
円融天皇の第一皇子で、母親は藤原兼家の娘の詮子です。
「公正温雅で才学に富み、特に笛に巧みで、廷臣の信頼を集めた」(『国史大辞典』)とのことです。
ただ、あることがあったときに笛を吹いていないことが気になるんですよねえ。。。
キャスト:石塚陸翔(いしづかりくと)
埼玉県出身の子役です。
キャスト2:高木波瑠(たかぎはる)
東京都出身の子役です。大河ドラマは「青天を衝け」に出演しています。
キャスト3:塩野瑛久(しおのあきひさ)
東京都出身の俳優です。大河ドラマは初出演です。
解説:実際の一条天皇・その後の一条天皇
キサキには定子、元子、義子、彰子、尊子がいます。
諱は懐仁なんですが、即位して20年近く経った1004年には、公卿みんなから諱を忘れられていたというエピソードがあります。
1~3回:まひろ初期(977~983年)ごろの一条天皇
天元三年(980年)約0歳
6月1日、東三条殿にて誕生します。
7月20日、五十日の儀が行われます。
8月1日、親王宣下を受けて、「懐仁」という諱が決まります。
天元五年(982年)約2歳
7月2日、円融天皇と会います。
12月7日、着袴です。
永観元年(983年)約3歳
7月4日、願行寺で御修善があります。
4~11回:花山天皇期(984~986年)ごろの一条天皇
永観二年(984年)約4歳
8月27日、花山天皇受禅に対応して、皇太子となります。
内裏の凝華舎に遷ります。
9月9日、壺切御剣を授けられます。
寛和元年(985年)約5歳
正月5日、東宮大饗です。
寛和二年(986年)約6歳
正月2日、東宮大饗です。
3月26日、花山天皇に朝観です。
6月23日、践祚します(受禅じゃなくて?)。
6月24日、藤原兼家を摂政とします。
7月5日、詮子ママを皇太后とします。
7月9日、詮子ママが内裏に入ります。
7月16日、元服した居貞親王(三条天皇)を東宮(皇太子)とします。
7月22日、即位します。このとき、高御座に生首が置かれていたという話があり、ドラマでも採用されました。
10月23日、大嘗会御禊です。
11月15日、大嘗会です。八省院に行幸します。
12月8日、読書始です。
12月20日、円融院に行幸します。
12回:「思いの果て」(987~989年)ごろの一条天皇
永延元年(987年)約7歳
内裏の清涼殿にいます。
正月2日、東三条院(詮子ママ)に朝観行幸します。
2月28日、病となります。
3月5日、新制十三箇条を定めます。まあ、約7歳なんで、お察しです。
4月5日、永延と改元します。
5月5日、新制五箇条を定めます。
10月14日、東三条院に行幸します。
11月2日、銭の流通を促進しようとします。
11月8日、石清水八幡宮に行幸します。
12月15日、賀茂社に行幸します。
永延二年(988年)約8歳
正月3日、円融院に朝観行幸します。
3月25日、兼家じいちゃんの六十賀が開かれます。
9月20日、八省院に行幸します。
永祚元年(989年)約9歳
正月6日、病となったので、占います。
2月16日、円融寺に朝観行幸します。
3月22日、はじめて春日社に行幸します。
8月8日、永祚と改元します。
8月13日、大風で宮城の門などが倒れます。
10月10日、殿上御遊で笛を吹きます。で、でたー!一条天皇さんの一秒間に10回笛だー!!
13回「進むべき道」・14回「星落ちてなお」(990年)ごろの一条天皇
正暦元年(990年)約10歳
正月5日、元服します。
正月11日、円融寺に朝観行幸します。笛を吹きます。
正月25日、定子(約14歳)が入内します。
2月11日、定子を女御とします。
4月1日、雑事二箇条を定め、賀茂祭の贅沢を禁止します。
5月4日、兼家を関白とします。
5月8日、道隆を関白とします。
5月26日、道隆を摂政とします。
6月28日、体調を崩します。
7月2日、兼家が死にます。
8月13日、病(赤痢・胸病)となります。
10月5日、定子を中宮とします。
11月7日、正暦と改元します。
正暦二年(991年)約11歳
正月、円融寺に行幸します。
2月12日、円融パパが崩御します。
9月7日、詮子ママが落飾して、女院(東三条院)となります。
9月16日、詮子ママが病気になったので、職御曹司に行幸します。
正暦三年(992年)約12歳
4月27日、土御門殿に朝観行幸します。12月14日、平野社に行幸します。
15回「おごれる者たち」(993年)ごろの一条天皇
正暦四年(993年)約13歳
正月1日、朝賀です。八省院に行幸します。
正月3日、土御門殿に朝観行幸します。笛を吹きます。
2月3日、病となります。
4月23日、道隆を関白とします。
4月28日、初めて官奏を覧ます。
6月25日、菅原道真に正一位左大臣を贈ります。このころって、なんか祟とかなさそうなんですが。。。
7月11日、関白後初の御前除目です。
8月8日、疱瘡にかかります。
11月27日、初めて大原野社に行幸します。
16~18回「岐路」(994~995年)ごろの一条天皇
正暦五年(994年)約14歳
正月3日、土御門殿に朝観行幸します。
2月10日、内裏の後涼殿に放火があります。
2月17日、内裏の弘徽殿と飛香舎に放火があります。
長徳元年(995年)約15歳
正月2日、土御門殿に朝観行幸します。
2月22日、長徳と改元します。
4月10日、道隆が死にます。
4月27日、道兼を関白とします。
5月5日、伊周の内覧を停めます。
5月8日、道兼が死にます。
5月11日、道長を内覧とします。
6月19日、道長を右大臣とします。
3月9日、伊周を関白にすることを拒否します。
10月21日、石清水八幡宮に行幸します。
19~21回:長徳の変(996年)ごろの一条天皇
長徳二年(996年)約16歳
正月5日、土御門殿に朝観行幸します。
2月5日、伊周の家司の宅を家宅捜索させます。
2月11日、伊周と隆家の罪名を勘申させます。
3月28日、詮子ママが呪詛されます。
4月1日、伊周が私的に大元帥法をしたという密告が入ります。
4月24日、伊周を大宰権帥に、隆家を出雲権守に左遷します。
5月1日、早まった定子が落飾します。
6月25日、道長を左大臣とします。
7月20日、藤原公季の娘・義子が入内します。8月9日に女御とします。
11月14日、藤原顕光の娘・元子が入内します。12月2日に女御とします。
12月16日、定子と一条天皇の娘・脩子内親王が生まれます。
22~26回:長徳年間(997・998年)ごろの一条天皇
長徳三年(997年)約17歳
正月2日、土御門殿に朝観行幸します。
4月5日、伊周と隆家の罪を赦します。
4月17日、花山院の院司を逮捕します。
6月22日、彰子ママが病気のため、行幸します。
長徳四年(998年)約18歳
正月22日、円教寺供養に行幸します。
2月11日、道兼の娘・尊子が入内します。
3月3日、道長が出家しようとしましたが、許しません。
4月、疱瘡にかかります。
7月18日、病となります。
この年、元子が破水します。
27回「宿縁の命」(999年)ごろの一条天皇
正月3日、定子を参内させます。
この年の正月13日に、天変地異や疫病を避けるために改元して、長保となりました。
3月には、富士山が噴火しました。
このとき、駿河国からの使者が富士山噴火を「なにかの祟りが原因では!?」と報告してきたのですが、
ドラマだと、26回で「朕の行為が天を怒らせて洪水がおきたのか。。。」と、反省したふりをした一条天皇が、舌の根も乾かぬうちに引責出家したはず定子ちゃんと内裏でラブラブちゅっちゅし続けたせいになりそうです。
さらに、6月14日には、一条天皇が住んでる内裏が火事で焼亡しました。
住処を追われた一条天皇は、詮子ママが去年から住んでいた一条院に遷りました(6月14日)。
ちなみに、引責出家したはず定子ちゃんも、一条院に連れてきました。反省する気がないですね、一条天皇は。
闇覚醒倫子ちゃんが、ため息をつく音が聞こえてきそうですね。
7月16日、歯が痛くなります。
7月25日、新制十一箇条を出します。
8月9日、定子が平生昌邸に遷ります。
9月7日、女御元子を内裏に連れ込みます。
9月19日、内裏で猫が子を生みます。
8月9日、定子ちゃんは、引責出家したはずなのにお産が近づいてきたということで、一条院から退去しました。
ドラマでも強調されるけど、そもそも定子ちゃんは出家していました。要は定子は尼さん扱いなわけで、原理的にはエッチしちゃいけない立場の人です。
一条天皇が出家後の定子ちゃんを内裏に呼び寄せてエッチするってのは、西洋の皇帝とかが権力に任せて、神に仕えてエッチしちゃいけないシスターをお城に連れ込んで妊娠させるようなものかもしれません。
実資は日記『小右記』で、引責出家したはず定子の出産をボロっカスに言っています。
11月15日、花山院が熊野行幸しようとしたのをとめます。
12月8日、目の調子が悪くなります。
28回「一帝一后」(999年~1000年)ごろの一条天皇
正月28日、彰子立后の日時などを決めます。
2月18日、敦康親王の百日の儀です。一条天皇は中宮御所に渡ります。
2月25日、彰子を中宮とします。
4月19日、敦康を親王とします。
5月9日、道長が辞表を叩きつけてきやがったので、突っ返してやります。
5月17日、詮子ママが危篤となります。
8月8日、道長がやっと仕事に復活します。
8月20日、前に入内していた尊子(道兼と繁子の娘)が女御となります。
10月11日、前年に火事になった内裏が再建されたので、一条天皇と彰子が新造内裏に遷ります。
11月14日、彰子ちゃんは好きじゃないし、定子は妊娠中なので、元子を内裏に呼びます。
12月15日に最愛の定子が媄子内親王を産みますが、翌朝の5時頃に定子は亡くなります。
定子は約24歳、一条天皇は約20歳です。振り返ってみると、定子が一条天皇に入内したのは天皇が約10歳のころなので、一条天皇は10代の全てを愛する定子と過ごしてきたのです(元子とも結構ラブラブちゅっちゅしてきたことはナイショ♡)。そりゃ悲しかろうて。。。
このとき、一条天皇は道長を内裏に呼ぶのですが、テキトーな(『権記』を見るにたぶんウソの)理由をつけて、おもくそスルーされます。
あと、定子の死後、一条天皇はなにかと定子の葬儀や法事の手配を求めるのですが、公卿たちは露骨に協力してくれません。
29回「母として」(1001年)ごろの一条天皇
この年も、世の中に疾疫が蔓延します。一条天皇よ、反省してるか?
まあ、実際の一条天皇は、この年もなにかと新制を発布していますが。
、、、オマ、人の心とかないんか?
(以下の一件は、ドラマの演出と原作(史実)の違いがかなりおもしろいので、下の動画か、ブログ「田鶴のトラウマ・厳君のトラウマ (史実で楽しむ 光る君へ解説・考察 ep 30(第29回)「母として」)」でぜひ詳しくチェックしてみてください)
10月7日に、詮子ママの四十歳の算賀のリハーサルが内裏の清涼殿で行われます。ことのき、一条手天皇は倫子の子の田鶴だけを褒めました。
10月9日に、詮子ママの四十歳の算賀がハデに開催されます。
ドラマでは、一条天皇は、パーティー会場が道長の正妻・倫子の自宅であるにもかかわらず、道長の愛人・明子ファミリー御一行を無理やり呼びました。
、、、性格、悪っ!
斉信たちも「ないわー」て、言ってましたね。
この祝の席で、童舞(わらわまい)という、ボーイズのダンスも披露されました。
道長の正妻・倫子の子、約9歳の田鶴は、陵王を舞いました。
道長の愛人・明子の子、約8歳の巌君は、納蘇利を舞いました。
このとき、田鶴の舞よりも、1歳年下で明子の子の巌君の舞のほうが優れていました。
そこで、一条天皇は、巌君の舞の師匠にだけ栄爵を与えるという形で、巌君だけを褒め称えました。
そのせいで、愛人明子と正妻倫子がバチってたし、田鶴は泣いていたし、、、
一条天皇は、ぜったい分かってて、わざとやってますねえ、、、
、、、性格、悪っ!
ホント、性格、悪っ!!
原作(史実)では、(明子は呼ばれてないでしょうが、)田鶴と巌君が舞って、巌君だけが褒められたところまでは、基本的にドラマは原作(史実)どおりです。
しかし、実際の道長パパは、愛人明子の子よりも正妻倫子の子を露骨にひいきする人でした。
なんと、道長は巌君を褒めるどころか、一条天皇に巌君が褒められたことに露骨に機嫌を損ねて、席を立って寝室に帰りやがりました。
実は、原作(史実)には、もっと複雑な経緯がありました。
実は(しつこい)、詮子姉さんおめでとうパーティーの二日前には、内裏の清涼殿でリハーサルが行われていました。
それで、道長は(ホントに文字どおり)“飛び跳ねて小躍りして”喜びました。
一条天皇が、田鶴と巌君のバランスを取ろうとしたなら、リハで愛人の子・巌君を褒めて、本番では正妻の子・田鶴の顔を立てるのが王道なわけで、、、というか、そもそもリハでも本番でも二人とも褒めればいいはず。
それを逆にするってことは、、、
実際の一条天皇は、リハで正妻の子の田鶴だけを褒めることで、田鶴に対しても道長に対しても、本番でも田鶴だけが褒められることを匂わせておいて、、、本番では愛人の子の巌君だけ露骨に絶賛する! という火力の高い攻撃を放ってきた‼️ということになります。
おいおいおい、、、
一条天皇って、そうとうに性格が捻じ曲がってないか?
それか、ビックリするほどなにも考えてないのか?
、、、まあ、一応一条天皇をフォローすると、最愛の定子が死んだショックから立ち直らないまま、その子の敦康親王も人質にとられていますからねえ、、、道長のこと好きじゃないようねえ。
11月18日に、去年建て直したばかりの内裏が、また火事になりました。
一条天皇と彰子と敦康親王は、いったん職御曹司(前に詮子ママがいたり、定子がいたりしたところ。本来は太政官の宿所兼執務室)に移ります。
内裏が焼けているので、22日には、また一条院に遷ります。彰子・敦康親王もいっしょです。
12月4日、故定子の一周忌法要です。
閏12月にはいると、詮子ママの様態が悪化します。「腫物」とのことです。
閏12月16日に、一条天皇はママがいる東三条院御所(平惟仲邸か)に見舞いに行きます。このとき、一条天皇は藤原伊周の罪を解き、本位の正三位に戻します。ドラマでは、詮子が「伊周の復活は、自分のためではなく”一条天皇と敦康親王のため”」と言っていました。
ドラマでは、伊周が早速一条天皇に『枕草子』を献上していたのですが、伊周の昇殿が聴されるのは寛弘二年(1005年)のことではあります。
翌17日、詮子ママが三条第(行成)邸に移って、22日に崩御したので、一条天皇は約21歳にして両親(円融天皇・藤原詮子)ともに失ってしまうことになりました。
詮子ママを亡くしたときも、詮子ママの葬送が終わったと行成が報告してきたときも、実際の一条天皇は詮子ママについてなんらのコメントも残しませんでした。
詮子と一条天皇の親子関係とは、いったいどういうものだったのでしょうか。。。
30回「つながる言の葉」((1002~)1004年)ごろの一条天皇
長保四年(1002年)
彰子とはまだラブラブちゅっちゅにはなっていません。敦康親王はものすごくかわいがります。
『栄花物語』によると、一条天皇は定子の妹の御匣殿という女性を妊娠させました。御匣殿は定子の忘れ形見の敦康親王の母代わりとして、敦康親王に仕えていたのです。もちろん、一条天皇と彰子と敦康親王が住んでいる一条院でのできごとですよ。このとき、伊周と隆家はとても喜んだといいます。
なお、御匣殿は(『栄花物語』を信じるなら身重のまま)6月3日に亡くなります(こちらは『権記』なので確実)。
4月3日、体調を崩します。
10月24日、去年から住んでいる一条院内裏でボヤ騒ぎが起きます。
長保五年(1003年)
2月26日、体調を崩します。
3月4日に石清水八幡宮に三度目の行幸をして、3月26日に賀茂社に二度目の行幸をします。
10月8日、一昨年前に二度目の火事にあった内裏が建て直されたので、新造内裏に遷ります。彰子もいっしょです。なお、敦康親王は道長邸を経て、隆家邸に一度移りました(その後は、内裏にいたり道長の枇杷第にいたりするようです。)。
長保六年/寛弘元年(1004年)
正月17日、敦康親王が内裏に入ります。もちろん、彰子の飛香舎で養育されます。
この年、一条天皇はいろいろな文化的な催しを開きます。
7月10日、一条天皇は自ら雨乞いをします。これは、桓武天皇以来216年ぶりのことです。ちなみに、なんと当日と12~14日に雨が降ります。
でも、安倍晴明が14日に(ドラマでは命をかけて、、、あ、道長の命をかけて)マジ雨乞い(五竜祭)をしているので、公卿たちが「意味ねー」って思うくらいの雨だったのでしょう。
結局、また猛暑が続いたので、7月20日に改元が行われます。
道長の日記『御堂関白記』によれば、新しい年号を定めるとき、公卿がほぼ全会一致で「寛仁」を選びました。しかし、年号にはその時の天皇の諱に含まれている漢字(一条天皇の場合は「懐」と「仁」)は使用できないことになっています。結局(おそらくあわてて)、「寛仁」ではなく「寛弘」に改元されました。公卿たちは、みんな一条天皇の諱を忘れていたということが分かります。
なお、改元しても雨は降らなかったようで、9月7日に道長が禊をしています。
31回「月の下で」(1004年)ごろの一条天皇
10月14日、道長に松尾神社行幸に連れ出されます。
10月21日、道長に平野・北野両社行幸に連れ出されます。
、、、なお、一条天皇が京を出たのは、これが最後になります。
11月3日、内裏羹次です。笛を吹きます。
11月6日、内裏でボヤ騒ぎが起きます。
32回「誰がために書く」(1005年)ごろの一条天皇
寛弘二年(1005年)約25歳
2月から3月にかけて、伊周と隆家を復権させます。
3月27日、敦康親王と対面します。脩子内親王の裳着をします。
4月26日、病となります。二十日余りを食欲不振が続いたりします。父の円融院と同じ症状だそうです。
11月13日、敦康親王の読書始をストーカーします。
11月15日、皆既月食が終わった直後の子刻(23時~)、内裏の温明殿と綾綺殿の間から火が出て、内裏が焼け落ちます。
一条天皇は彰子がいる飛香舎にいて、なんと供の者もなく二人で飛香舎から脱出します。そこに道長が駆けつけたようで、そこからは、中和院→職曹司→太政官朝所(だいじょうかんあいたんどころ)と避難します。
このとき、賢所(温明殿の南の神殿)に奉置してあった神鏡も焼損してしまいます。建前上では神話の時代から伝えられてきた神鏡の喪失です。
11月27日、一条天皇と彰子は、東三条殿に遷御します。一条天皇にとっては、出生の場所に帰ってきたことになります。ドラマでは、昔、幼い懐仁親王(一条天皇)と幼い定子が遊んでいた場所ですね。
33回「式部誕生」(1006年前半)ごろの一条天皇
寛弘三年(1006年)
2月25日、元子を東三条院内裏に連れ込みます。道長は不機嫌そうです。なお、これが元子の最後の参入となりました。
3月4日、東三条殿で花の宴が行われます。その後、東三条殿から一条院に遷御します。
34回「目覚め」(1006年後半~1007年前半)ごろの一条天皇
寛弘三年(1006年)
4月23日、媄子内親王に対面します。
9月23日、道長邸に行幸して、競馬を見ます。彰子や敦康親王もいっしょです。
10月9日、唐物を見ます。
11月26日、道長が辞表を叩きつけてきやがったので、ソッコー叩き返します。
寛弘四年(1007年)
正月20日、脩子内親王を一品に叙して、封戸を賜います。
4月6日、下痢になります。
35回「中宮の涙」(1007年後半)ごろの一条天皇
寛弘四年(1007年)
6月16日、大赦します。
12月、彰子の懐妊が分かります。
36回「待ち望まれた日」(1008年)ごろの一条天皇
寛弘五年(1008年)
2月7日、花山院が病気ということで、花山院に見舞いに行きます。花山院は翌8日に崩御します。
2月27日、国司を訴えた尾張国郡司百姓などを追い返します。
3月22日、死にかけている勧修大僧正から、行成に「天道、命を賜うに三年」という手紙が届きます。一条天皇の余命を予言したものかと言われています。
4月7日、歯が痛くなります。
5月25日、媄子内親王が薨去します。
このころ、『源氏物語』を読みます。
9月11日、敦成親王が生まれます。
37回「波紋」(1008年後半)ごろの一条天皇
寛弘五年(1008年)
10月16日、中宮が出産で里帰りしている土御門殿に行幸します。
12月20日、敦成親王の百日の儀を行います。
12月30日、宮中に盗賊が入ります。
38回「まぶしき闇」(1009年前半)ごろの一条天皇
寛弘六年(1009年)
正月30日、彰子と敦成親王を呪詛する厭物(いやもの)が発見されます。伊周はまだ生きています。
2月20日、伊周が参内することを禁止します。
2月18日、体調を崩します。
2月15日、体調がますます悪くなります。
4月6日、風病により、一条院での作文を延期します。
9月24日、彰子の御産を理由に、敦康親王の元服の延期を提案します。
10月5日、一条院内裏が事にあいます。
10月19日、枇杷殿に遷ります。
10月5日、一条天皇の「寿限」の夢想がありました。寿命が尽きるということでしょうか。
39話「とだえぬ絆」(1010~1011年前半)ごろの一条天皇
寛弘六年(1009年)
11月25日、敦良親王が生まれます。
12月26日、敦康親王の御読経を行います。なお、道長はいいわけしてスルーします。
寛弘七年(1010年)
3月11日、御祈のために、行成を石山寺に遣わします。
春以降、行成に敦康親王を立太子できないものかと相談します。
7月17日、敦康親王が元服します。
8月13日、国史を編纂することについて議論します。
11月28日、一条院内裏が建て直されたので、一条院に遷ります。
40話「君を置きて」(1011年中盤)ごろの一条天皇
40話の詳しい解説については、月~火曜日にアップします。
寛弘八年(1011年)
5月22日、中宮(土御門殿?枇杷殿?)に会いに行きます。体調を崩します。
5月27日、譲位やむ無しというコンセンサスを得る。まだ敦康親王にこだわっていて、敦康親王を立太子できないものかと行成に相談します。
6月2日、東宮居貞親王と面談します。
6月13日、譲位します。なお、一条天皇は病が重く、儀式には参加できませんでした。
6月19日、出家します。行成に容貌をディスられます。
6月21日、辞世の歌を詠んだあと、意識を失います。
6月22日、臨終したり蘇生したりしましたが、崩御します。
6月25日、入棺の儀が執り行われます。
6月27日、初七日の御諷誦が執り行われます。
7月8日、遺骸が荼毘に付されます。
7月9日、遺骨が円成寺に移されます。
7月17日、死んだあとなのに、源俊賢たちにディスられます。
7月18日、公任に遺骨を(?葬送儀礼を?)いいかげんに扱われます。
長和元年(1012年)
4月3日、遺領や遺物が処分されます。
5月27日、一周忌の法会が円教寺で執り行われます。
寛仁四年(1020年)
6月16日、遺骨が円融寺の北の方に遷されます。
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