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執筆者の写真順大 古川

藤原頼通(田鶴) 「光る君へ」人物事典045

更新日:11月17日


【目次】


藤原頼通(ふじわらのよりみち):渡邊圭祐・三浦綺羅

まずは、NHK公式の紹介を引用して、大河ドラマ上での設定を確認しておきましょう。


道長の嫡男。権力者ののもと、若くして出世していく。しかし政治に興味がなく、には尊敬と反発の複雑な思いを抱き続ける。のちに宇治に平等院を造営する。


摂政太政大臣道長左大臣源雅信女従一位倫子の長男です。

道長と違い、入内させた娘が親王を生みませんでした。




頼通の幼名は田鶴(たづ)でした。ドラマでは、子どものころの田鶴は体を動かすことが好きだと、倫子ママが言っています。

17歳のころの頼通は、紫式部から、年齢以上に立派で物語の貴公子のようだと褒められています。頼通の子孫が語るところによると、かなりのヒスだったらしいんですが。


2013年生まれの子役です。サンミュージックブレーン所属です。

大河ドラマでは、『どうする家康』(織田信長役)に出演しています。


1993年生まれの俳優、モデルです。アミューズ所属です。

大河ドラマは初出演です。


解説:実際の頼通・その後の頼通

正暦三年(992年)正月生まれ。藤原道長と、源倫子の長男です。道長から見れば、自分の跡継ぎ候補筆頭にあたるわけです。頼通は歴代最長の50年以上にわたって摂関をしていたことと、平等院鳳凰堂を立てたことで有名です。


約12歳で元服して、約25歳で内大臣になります。道長の息子なので、ロバート実資が泣きたくなるほど早い出世です。

ちなみに、かつて道隆が強引に出世させた伊周は約20歳で内大臣になったので、いかに道隆・伊周親子が公卿の反発をかったのかもうかがえます。




次がすごくて、約25歳のときに内大臣になったその月のうちに、後一条天皇の摂政になります。その2年後には関白です。

ただ、政治の実権は道長が握っていて、何を決めるにも道長の言葉を仰いでいる頼通の姿は、ロバート実資によって皮肉られています。


『古事談』『愚管抄』やなどに、頼通と尊仁親王(後三条天皇)の対立の話がみえます。

頼通が入内させた養女子(後朱雀天皇中宮)や娘の寛子(後冷泉天皇皇后)に皇子の誕生がなく、後三条天皇の即位とともに外戚の地位を失ったことが、摂関家勢力低下の一因とされています。



27回「宿縁の命」(999年)ごろの田鶴(頼通)

約7歳です。

7月18日、田鶴(頼通)は病の療養のために、あかね(和泉式部)が住んでいた橘道貞邸に行かされます。、、、なんで、病だったら橘道貞邸に来るんだろ? 方角的な問題??



約8歳です。倫子ママ詮子に言うには、「田鶴は体を動かすことが好き」だそうです。大人になってからの頼通の、どのエピソードにつながるのでしょうか。



29回「母として」(1001年)ごろの田鶴

約9歳。10月9日の詮子おばさんの40歳祝の席で陵王という童舞を舞うのですが、1歳年下で明子の子の巌君の舞よりもヘタクソプーでした。

ドラマでは、一条天皇倫子明子もお祝いに呼んで、巌君の師匠にだけ栄爵を与えるという形で童舞のあとに巌君だけを褒め称えました。明子と倫子がバチってたし、田鶴は泣いていたし、、、一条天皇は、分かってわざとやってますよねえ、、、

ふだんはなりふりかまわず「定子定子」としか言わないくせに、こういうときだけ政治的にイジワルしてくるんですね。これで田鶴が自己肯定感の低い大人になったらどうするつもりなんでしょう。

かなり面白い事件なので、詳しくは下の動画を御覧ください。



30回「つながる言の葉」((1002~)1004年)ごろの頼通

長保五年(1003年)約11歳

2月20日、枇杷第で、頼通の元服と、妍子(約10歳)の着裳が行われます。


長保六年/寛弘元年(1004年)約12歳

正月9日に昇殿を聴され、2月10日に禁色を聴されます。この間、2月5日に右近衛少将春日祭勅使として奈良に下向もしており、道長の後継者としての既成事実を積み始めます。ドラマでは、ダンサブルじゃないくせに。

なお、このとき、あかね(和泉式部)の(元)夫の橘道貞が諸事の面倒をみます。あと、公任の子の定頼もお供しています。



ドラマでは為時の教えを受けている子どものように見えましたが、すでに正月に四位となって近衛少将春日祭勅使となっている高貴なる大人(約12歳)です。為時先生が一生かかって届く五位なんぞ、とっくにぶっちぎってます。

16歳ぐらいで四位だった若い時の伊周の上位互換ですね。道長、あのときはあんなに批判的だったのに。。。


弘三年(1006年)約14歳

従三位となります。


35回「中宮の涙」(1007年後半)ごろの頼通

約15歳。



36話「待ち望まれた日」(1008年)ごろの頼通

約16歳。

10月16日、一条天皇彰子の間に敦成親王が生まれた関係で、従二位となります。もう、道長パパの一階下です。




38回「まぶしき闇」(1009年前半)ごろの頼通

寛弘六年(1009年)約17歳

3月4日、従二位権大納言兼春宮権大夫となります。右衛門督も兼ねます。

ドラマではロバート実資に指南を受けて、衝撃を受けていました。


夏ごろ、具平親王の娘の隆姫と結婚します。頼通よりも3歳年下になります。当時、最初の妻が年下で皇族というのは、かなり珍しいパターンではないでしょうか。ほかに誰かいましたっけねえ。

結婚の様子はとても華やかで当世風。薫香もすばらしかったと『栄花物語』は語ります。

この縁談が持ち上がったときの道長の感想は、「男子の価値は妻次第で決まる。高貴な家に婿取られるべきなのだ」というものでした。実際、道長は結婚当時は明らかに格上の源倫子源明子と結婚しています。また、道長が「倫子ちゃんと結婚してよかった~」と思ってたこともわかります。まあ、出典は『栄花物語』ではあるのですが。。。

なお、『紫式部日記』からは、この縁談のときに道長が紫式部に相談をもちかけたようです。



39話「とだえぬ絆」(1010~1011年前半)ごろの頼通

寛弘八年(1011年)約19歳

2月、春日社に参詣します。道長の命令で公卿がほとんど頼通に従ったので、一条天皇は「食事の世話をする者もいねえ」と嘆いています。



寛弘八年(1011年)約19歳

6月9日、正二位となります。なんと、道長パパと同じです。


その後の頼通

長和四年(1015年)約23歳

10月15日、三条天皇が、娘の禔子内親王と頼通の縁談を道長にもちかけます。正妻の隆姫には子がいないので、当時としてはアリな縁談です(え~、まだ20歳やん。チャンスあるやん)。

ただ、頼通が皇女と結婚すると隆姫は次妻待遇になるらしく、隆姫の母尼は悲しんで食べ物ものどを通らないありさまです。

頼通は隆姫を愛しているので、この縁談がいやで涙ぐみますが、

道長は

「男子は妻一人だけをもつということはないだろ。愚かしいぞ。今まで子に恵まれていないから、とにかく子を作ることだけ考えろ。禔子内親王はきっと子を生んでくださるさ。」

と、令和のコンプラ100%アウトなことを言って、頼通をしかります。

頼通は悩みからか発熱して重体におちいります。道長と倫子が頼通を看病していると、伊周の霊か具平親王の霊が現れます。伊周しつこいなあ。

なんやかんやで縁談は破談となり、頼通はあっさりと回復します。

まあ、頼通は後々倫子ママの側にいたメイドさん(祇子(ドラマの祇子女王とは別人))に手を出して、たくさん子をこさえるんですけどね。



寛仁元年(1017年)約25歳

3月、内大臣となります。

3月16日、後一条天皇の摂政となります。ただし、政治の実権は道長にあり、頼通自身もそれを受け入れていました。

8月、除目で道長に頼ります。


寛仁二年(1018年)約26歳

正月3日、後一条天皇が元服します。

10月16日、道長パパが望月の歌を詠みます。


寛仁三年(1019年)約27歳

2月21日、道長パパが出家します。

12月22日、後一条天皇の関白となります。


(1021年)約29歳

従一位、左大臣となります。


(1023年)約31歳

道長に怒られます。



万寿四年(1027年)約35歳

道長が没したため、名実ともに摂関家の筆頭となります。


長元元年(1028年)約36歳

前上総介平忠常が反乱を起します。同四年になってようやく鎮定されました。


長元九年(1036年)約44歳

後朱雀天皇の関白となります。


長久元年(1040年)約48歳

荘園整理令の論議を行います(実施は確認されていません)。


寛徳二年(1045年)約53歳

後冷泉天皇の関白となります。

太政官符を下して、荘園整理を実施します。


永承六年(1051年)約59歳

陸奥の安倍氏が反乱を起します。源頼義に追討を命じます。結局平定されたのは康平五年でした(前九年の役)。


永承七年(1052年)約60歳

道長から伝領した宇治の別業を寺に改めて平等院と号します。


天喜元年(1053年)約61歳

平等院の阿弥陀堂(鳳凰堂)が完成します。


天喜三年(1055年)約63歳

太政官符を下して、荘園整理を実施します。


康平三年(1060年)約68歳

左大臣を辞し、嫡子の師実を内大臣とします。



康平四年(1061年)約69歳

太政大臣となり、翌年に辞します。


治暦三年(1067年)約75歳

准三后となります。


治略四年(1068年)約76歳

弟の教通に関白を譲ります。

直後に後三条天皇が践祚します。天皇は三条天皇皇女の禎子内親王を母としていました。

後三条天皇は、頼通をはじめとする藤原氏によって東宮の地位を脅かされていたため、即位後は摂関家の勢力を削減します。延久の荘園整理令が有名です。


延久四年(1072年)約80歳

正月29日

出家します(法名蓮花覚、のちに寂覚)。


承保元年(1074年)約82歳

2月2日、没します。



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