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執筆者の写真順大 古川

藤原彰子 「光る君へ」人物事典026

更新日:10月20日


【目次】


藤原彰子(ふじわらのあきこ):見上愛

まずは、NHK公式の紹介を引用して、大河ドラマ上での設定を確認しておきましょう。


道長の長女。幼いうちに一条天皇に入内し、定子と競う立場となる。紫式部(まひろ)は才を見込まれ、彰子のもとに宮中女房として出仕する。彰子は、一条天皇にふさわしい妃になろうと努力を重ねる。


ドラマでの一条天皇との仲良しぶりを見ると定子ちゃんが敵っていうのは、ホントに無理ゲー。彰子ちゃん、ほんときつかったね。

ドラマの27話では、閨房に興味津々だったことがバラされます。


一方で、大人になったら、彰子ちゃんが生きている間に二人の子どもと二人の孫と一人のひ孫が天皇になるという、スーパー国母になったりもします。穆子・倫子・彰子の祖母・母・娘三世代はとにかく長生きなんですよ。


キャスト:見上愛(みかみあい)

東京都出身の女優です。大河ドラマは初出演です。


解説:実際の藤原彰子

藤原道長と源倫子の長女です。紫式部が仕えました。

後の例を鑑みるに、「彰子」という名前は、999年(長保元年)2月の裳着と同時に従三位となったときに付けられたものと考えられます。


大人になった後の彰子は国母として、天皇や摂関とともに、そしてときには天皇や摂関以上に国政を動かしていました。

ロバート実資は、国母について「母后また朝事を専らにす」(『小右記』長徳三年七月五日条)と評価しています。


国母となった彰子ちゃんは、いずれ天皇家と摂関家の家長となります。国母としての彰子は、院政期における院の先例ともなったと考えられています。


1018年、4月に内裏新造。彰子は常に内裏弘徽殿を居所として、息子の後一条天皇と、息子の皇太弟後朱雀と同居します。


弟の頼通(75歳)が関白を息子の師実に譲ろうとしたとき、関白頼通(75歳)はおそるおそるスーパー姉ちゃん彰子ちゃん(79歳)に相談しました。

すると、彰子ちゃん(79歳)は難色を示して、「師実に譲っちゃダメ」と関白頼通(75歳)に命じました。その結果、関白は頼通の弟の教通に譲られることとなったという話が『古事談』にあります。50年以上も関白をやってきたような頼通ですら、国母彰子ちゃんには逆らえなかったという話です。


そのほかにも、人事や国政にものすごく関与し続けています。

摂関期の国母は、息子の天皇と同居して、天皇を日常的に後見します。

そんで、天皇や摂関とともに、そしてときには天皇や摂関以上に国政を動かしていました。

ロバート実資は、国母について「母后また朝事を専らにす」(『小右記』長徳三年七月五日条)と評価しています



4~11回:花山天皇期(984~986年)ごろの彰子

永遠二年(988年)

この年、彰子が誕生します。母は倫子、父は道長です。道長が権中納言になった年です。


13回「進むべき道」・14回「星落ちてなお」(990年)ごろの彰子

正暦元年(990年)

12月25日、着袴します。ライバルの定子が入内したのはこの年です。


2月9日、裳着です。

2月11日に従三位となります。おそらく、このときに名簿を提出するために、「彰子」と名付けられたと考えられます。


9月25日ぐらいから、道長たちが彰子の入内の準備を始めたことが『御堂関白記』から分かります。

ドラマでは、夏ぐらいから「彰子ちゃん、港区女子化大作戦♡」をしていました。ドラマでは、赤染衛門の能力が閨房に全振りされていたり、彰子ちゃんが興味津々だったりと、二人の意外な側面が設定されました。


10月21日、道長は、彰子が入内するときに持ち込む屏風に貼る和歌を贈ってくれるよう、みんなに依頼(恫喝)しました。

入内する娘の屏風に公卿が和歌を贈ることすら、前代未聞の傲慢な行為なのに、さらに花山法皇までもが和歌を贈っているような状況にロバート実資はバチギレて、「そんな話はこれまで聞いたこともない」と憤慨しています。


なお、ロバート実資だけは道長の恫喝を拒否っていて、ロバート実資の従兄弟の公任も歌を贈ったことも批判しています。まあ、立場と力関係的に、公任は断れないですよねえ。


10月30日、公卿たちや花山法皇が献上した和歌を、後に三蹟と称される書の達人・行成が清書しました。

このとき、道長は重ねてロバート実資に和歌を求めましたが、ロバート実資はまたも拒否しました。

ちなみに、彰子ちゃんが女御になった後、道長はイヤミったらしく、ロバート実資の歌だけが書かれていない屏風がある部屋に、ロバート実資を呼び込みます。

ドラマでは、彰子が入内する前に、ロバート実資が道長とともに屏風を見ましたね。


彰子の入内の日は11月1日に決定しました。

ドラマだと、定子の産み月に入内をぶつけてやれと、道長がたくらんでいました。


11月1日、彰子に、内輦車宣旨が下されました。輦車というのは、牛車と違って人が引く車です。



内裏は6月の火事で焼け落ちているので、入内先は一条天皇が住んでいる里内裏の一条院です。下の図で、詮子姉さんが住んでいた一条院に、一条天皇たちは移っていました。



7日、女御宣旨が下されて、彰子は女御となりました。

なにげに、一条天皇にとっては、4人目(定子・義子・元子・彰子)にして初の年下のキサキです。

定子のページで詳しく書いていますが、この日は引責出家したはずの中宮定子が男子、すなわち敦康親王を産んでいます。

一条天皇は「天気快」と、満面の上機嫌で定子息子のお祝いの手配をしまくっています。ほんと、いけにえの姫彰子ちゃんはかわいそうですね。

諸卿は、中宮定子をスルーして、女御彰子のことにお祝いの挨拶にきました。


ドラマでは、彰子ちゃんと顔合わせをしたときの一条天皇は、ほんとにイヤなヤツでした。

「そなたのような幼き姫、、、」とか

「楽しく暮らしてくれれば、朕も嬉しい」とか

お前の相手をする気はない、的な気持ちを隠そうともしなかったです。これには、公卿たちも道長も、凍りついていました。



12月、冷泉天皇のキサキだった太皇太后昌子内親王が1日に崩御して、后が一人減ったのを受け、道長と詮子は、今年の2月に裳着したばかりで、さっき女御になった彰子ちゃんを、もう中宮にしようと画策し始めました。

ドラマでは、安倍晴明が提案していました。次回に続きます。



1000年2月10日、立后の儀式のために、女御彰子は道長が住んでいる二条邸に退出しました(このとき、道長は土御門殿じゃないの?)。なお、このスキをねらって、一条天皇定子を一条院内裏に連れ込んでいます。


1000年2月25日、女御彰子は倫子と道長の邸である土御門殿に移り、一条天皇は紫宸殿で立后の宣命を読み上げさせる儀式を執り行いました。ドラマでは、ロバート実資が宣命を読み上げていました。

こうして、皇后の遵子は皇太后となり、中宮定子は皇后となり、女御の彰子は中宮となりました。

3月4日、諸社に奉幣します。


1000年4月7日、彰子は立后後初めて一条院内裏に参内し、夜に東北の対に入りました。昼間は暴雨大雷で、豊楽院には雷も落ちたそうです。


5月2日、彰子は土御門殿(倫子邸)に退出します。4月から病を得た道長パパの病気見舞いだったと考えられています。

ドラマでは、道長は明子の家で倒れたという演出でした。この違いが、今後どう出てくるのかが気になるところです。


8月8日、鹿島神宮に奉幣使を発遣します。

8月27日、和歌会が開催されます。

9月8日、彰子は一条院内裏に参内します。

10月11日、昨年焼け落ちていた内裏が建て直されたので、内裏の飛香舎(藤壺)に参入します。

11月16日、新嘗祭に五節舞姫を献上します。

12月16日に、ライバルの定子が没します。



29回「母として」(1001年)ごろの彰子

長保三年(1001年)正月10日に、彰子のおばあちゃん、すなわち倫子のママの穆子の70歳祝(七十算賀法事)が行われます。このとき、彰子の名義でお坊さんが奏上されています。

このイベントは倫子・道長夫妻がハデに開いたようですが、一方で、同じ日に定子の三七日の法事も行われています。定子の法事にはいつも人が集まらず、お金も足りないので、一条天皇が費用をなんとかすることが多いです。


約13歳の彰子は、定子の忘れ形見の敦康親王を養育させられることが決まりました。

8月3日に敦康親王が彰子の上盧に来て、11日に敦康親王の魚味始(まなはじめ)の儀が執り行われます。

彰子は9月9日に土御門殿(倫子・道長邸)に退出し、10月には詮子の四十歳祝が行われ、いろいろと大事件を目の当たりにします。


11月7日に、彰子は内裏に戻ってきます。13日には、彰子が住んでいる飛香舎に敦康親王が渡ってきて、敦康親王の着袴の儀を行います。まだ、敦康親王は彰子と同居はしていないことも分かります。

ところが、11月18日にはまた内裏が火事になります。タイミングが良すぎるので、ライバル筋の放火も疑われています。

このとき、彰子は一条天皇に連れられて、敦康親王とともに一度職御曹司に移ります。

22日には、一条天皇に連れられて、敦康親王とともに一条院に移ります。



30回「つながる言の葉」((1002~)1004年)ごろの彰子

長保四年(1002年)

一条天皇とはまだラブラブちゅっちゅにはなっていません。彰子は約14歳です。敦康親王とは、まだ同じ建物には住んでいません。



『栄花物語』によると、一条天皇は定子の妹の御匣殿という女性を妊娠させました。御匣殿は定子の忘れ形見の敦康親王の母代わりとして、敦康親王に仕えていたのです。御匣殿は定子の妹なので、10代後半ぐらいです。彰子と大きく年が離れているわけではありません。

彰子からすると、一条院で御匣殿といっしょにあくせくしながら、なんとかかんとか敦康親王の面倒を見ていたら、一条院に住んでいる夫の一条天皇が自分ん家で御匣殿に手を出しやがったということです。

今でいうと、レスな夫がハウスキーパーさんに手を出しやがった感じでしょうか。

あー、しかもハウスキーパーさんは元カノの妹だ。

なお、御匣殿は(『栄花物語』を信じるなら身重のまま)6月3日に亡くなります(こちらは『権記』なので確実)。


長保五年(1003年)

正月3日、中宮大饗がを行います。

一昨年前に二度目の火事にあった内裏が建て直されたので、一条天皇といっしょに10月8日に新造内裏に遷ります。なお、敦康親王は道長邸を経て、隆家邸に移りました。

そういえば、ドラマでは、道長と隆家は仲良かったですね。


長保六年/寛弘元年(1004年)

正月17日、敦康親王(約4歳)との同居が始まります。


ドラマでは、一条天皇が彰子ちゃんの前で敦康親王に「定子に似てきたなー」とか言いやがりました。また、一条天皇が嫌いになりました。

笛のこともまだ根に持ってるし、、、あれって、彰子ちゃんが約11歳のころの話ですよ。少しはサンジを見習ってほしいものです。


4月20日、賀茂祭で斎院選子内親王と交流します。

8月17日、4日間病を患います。



寛弘二年(1005年)

正月8日、行成の手跡をもらい、行成流の書を学ぶことになります。


3月8日、大原野社に行啓します。あの、「一帝二后」のときに問題となった大原野社です。

そのきらびやかで贅を尽くしたようすは、ロバート実資にディスられます。


11月15日、皆既月食が終わった直後の子刻(23時~)、内裏の温明殿と綾綺殿の間から火が出て、内裏が焼け落ちます。

彰子がいる飛香舎には、たまたま一条天皇が渡ってきていたのですが、なんと供の者もなく二人で脱出し、駆けつけた道長の誘導で、中和院→職曹司と避難します。一条天皇とは太政官朝所(だいじょうかんあいたんどころ)に移ったようです。


11月27日、一条天皇と彰子は、東三条殿に遷御します。一条天皇にとっては出生の場所でもあり、ドラマでは、昔、幼い懐仁親王(一条天皇)と幼い定子が遊んでいた場所でもあります。ドラマの筋でいうなら、彰子は幼馴染夫婦の思い出の場所に連れてこられたことになるわけです。火事なので、一条天皇が悪いわけではないのですが、やっぱり彰子ちゃん、、、かわいそう。。。

そして、このころより、紫式部が彰子に仕え始めます(翌年の12月という説もあります)。


この年、不断御読経を四回します。



寛弘三年(1006年)

正月、紫式部が仕えてきます。新人のくせに、いきなり半年ぐらいサボりやがります。

3月4日、一条院内裏に遷ります。


寛弘四年(1007年)

歌がうまい伊勢大輔が出仕してきます。

12月、懐妊が分かります。道長よりも一条天皇のほうが先に知らされました。


36回「待ち望まれた日」(1008年)ごろの彰子

寛弘五年(1008年)

4月13日、懐妊したので、土御門殿に遷ります。

まひろから白居易の『新楽府』を習います。これが将来国母となったときの彰子の帝王学になるんだと思います。

6月14日、内裏に遷ります。

7月16日、土御門殿に遷ります。

9月11日、敦成親王を生みます詳しくは、こちらの記事を御覧ください。

10月16日、中宮が出産で里帰りしている土御門殿に、一条天皇がやってきます。異例のことです。

11月1日、敦成親王の五十日祝です。詳しくは、こちらの記事を御覧ください。

11月17日、敦成親王を連れて参内します。このときの様子は『紫式部日記』に書かれています。牛車は四人乗りなのですが、彰子は宮の宣旨(中宮宣旨)と二人で乗り、敦成親王は倫子ばあちゃんと乳母と三人で乗りました。彰子と敦成親王は別の牛車なんですねえ。

紫式部馬中将の君といっしょに乗って、お互いに「あ~、ヤダヤダ」と思っています。



37回「波紋」(1008年後半)ごろの彰子

寛弘五年(1008年)

ドラマでもあったように、藤壺の女房をあげて、『源氏物語』を製本します。

12月20日、敦成親王の百日の儀が行われます。



38回「まぶしき闇」(1009年前半)ごろの彰子

寛弘六年(1009年)

正月30日、彰子と敦成親王を呪詛する厭物(いやもの)が発見されます。伊周はまだ生きています。

3月頃、うかれ女のあかね(和泉式部)が出仕してきます。ドラマだと彰子ちゃんは閨房に興味津々なので、気が合うかもしれません。

6月19日、土御門殿に遷ります。


39話「とだえぬ絆」(1010~1011年前半)ごろの彰子

寛弘六年(1009年)

10月5日、一条院内裏が火事にあいます。一条天皇は枇杷殿(道長別邸)に遷ります。

11月25日、敦良親王を生みます。

12月26日、敦康親王の御読経が行われます。なお、道長はいいわけしてスルーします。


寛弘七年(1010年)

正月15日、敦良親王の五十日儀が行われます。

2月6日、敦良親王の百日儀が行われます。

10月11日、敦成親王の真菜始が行われます。

10月22日、敦成親王の着袴の儀です。

10月23日、直盧で失火があります。

11月28日、建て直した一条院内裏に遷ります。


寛弘八年(1011年)

正月2日、中宮大饗が開かれます。

正月3日、中宮和歌会を開きます。





その後の彰子

寛弘八年(1011年)

5月21日、一切経供養を行います。

5月21日、一条天皇が彰子ちゃんの殿舎を訪れます。

5月25日、道長は交渉のときに、彰子ちゃんに事実を隠すために、前を素通りします。

ドラマでもあったように、彰子ちゃんは隠すこともせず怒ります。

『権記』には后宮(きさいのみや)丞相を怨み奉り給う」とありますね。

このときが、彰子ちゃんの生涯で、一番怒りをあらわにした時なんじゃないでしょうか。

6月13日、一条天皇が譲位します。

6月22日、一条院が崩御します。彰子ちゃんは、最後まで側についていました。彰子ちゃんは約23歳で夫を亡くしたのです。 

10月16日、枇杷殿に遷ります。このとき、敦成親王は内裏の凝華舎に遷ります。

12月28日、敦良親王の着袴です。


長和元年(1012年)

2月14日、皇太后となります。

5月15日、亡くなった一条院の法華八講を行います(~19日)。

5月27日、除服します。

6月7日、土御門殿に行啓して、道長パパを見舞います。


長和二年(1013年)

正月2日、枇杷殿で大饗を行います。

正月10日、東宮敦成親王が朝観行啓します。

妹の妍子が連日宴会を開いてパーティーピーポーしてるので、公卿たちが出費がかさんで困っている。こんなことを続けていたら、道長パパが死んだときに公卿たちが手のひら返して裏切るんじゃないかと、彰子姉さんは心配します。なお、彰子姉さんは、自分たちの宴会を中止にしています。


長和三年(1014年)

2月9日、内裏が火事にあいます。

3月22日、枇杷殿から高倉殿に遷ります(三条天皇と妍子が枇杷殿に遷るため。なお、天皇と東宮は翌年9月20日に内裏に戻ります)。


長和四年(1015年)

11月17日、内裏が火事になります。

11月19日、枇杷内裏に(天皇が)遷ります。


長和五年(1016年)

正月2日、臨時客を行います。

2月7日、三条天皇が東宮敦成親王に譲位して、敦成親王(約8歳)が即位して後一条天皇となります。彰子は即位式でともに高御座に登りました。こうして、彰子も国母となります。

6月2日、新造の一条院内裏に後一条天皇とともに遷ります。

11月15日、天皇を連れて、大嘗会に行啓します。


寛仁元年(1017年)

正月2日、皇太后大饗を行います。

3月8日、天皇を連れて、石清水八幡宮に行啓します。

8月9日、敦良親王立太子(敦明親王が東宮を辞す)です。

11月25日、天皇を連れて、賀茂社に行啓します。

12月4日、彰子の令旨で道長が太政大臣に任じられます。


寛仁二年(1018年)

正月3日、後一条天皇が元服します。

正月7日、太皇太后となります。

4月28日、新造内裏に天皇と遷ります。

10月16日、道長パパが望月の歌を詠みます。


望月の歌は、後一条天皇の唯一のキサキである威子が立后した記念に詠まれたものですが、威子は彰子の妹です。

実は、威子をとっとと立后するように強く圧をかけたのは彰子でした。道長と頼通が彰子の御所に参上したときに、彰子は「尚侍(威子)立后すべきこと、早々たるを吉とすべし」と、パパ道長と弟頼通に指示しています。

これは強いです。だって、道長ですら、自分の娘が二人も立后している状況(彰子が太皇太后、妍子が中宮)で、さらに娘の威子までも立后させるはヤバいっしょと、躊躇しているくらいですから。

そして、躊躇して、「ちょっと、、、それは空気的に、、、ヤバ、、、」と返事をするパパ道長に対して、もとぼんやり娘彰子ちゃんは、早よせいや(「さらにしかるべきことにあらず、同じき様あるをもって慶び思ふべきなり」)と、パパ道長に発破をかけます。

天皇の後宮に対する主導権は、完全に彰子ちゃんが握っているのです。


10月21(22?)日、道長倫子彰子妍子、威子が一堂に介します。妍子が彰子姉さんに会ったのは5年半ぶりです。

10月22日、京極殿に天皇と行啓します。



寛仁三年(1019年)

2月21日、道長パパが出家します。彰子も妍子も威子も駆けつけます。

8月28日、東宮敦良親王が元服します。


寛仁四年(1020年)

正月2日、太皇太后大饗を行います。

2月、道長パパが無量寿院(後の法成寺)に仏像を安置したので、彰子・妍子・威子が行啓します。

3月22日、無量寿院の落慶供養に、彰子・妍子・威子が行啓します。

4月13日、後一条天皇が疱瘡にかかったので、鬼気祭を行います。

9月10日、後一条天皇が病にかかります。


治安元年(1021年)

10月14日、天皇といっしょに春日社に行啓します。


治安二年(1022年)

6月4日、後一条天皇が病気なので、諸寺に読経させます。

6月22日、後一条天皇が病にかかります。

7月ごろ、京極院に遷ります。

7月14日、無量寿院が寺号を法成寺と改めて、新仏開眼供養をするので、彰子、妍子、威子、禎子内親王が参加します。

10月13日、仁和寺観音院に御堂を建立します。


治安三年(1023年)

正月2日、京極院にいる彰子のもとに、後一条天皇と東宮敦良親王が朝観行幸/行啓してきます。

4月1日、禎子内親王が彰子のいる京極殿で裳着します。母の妍子もいっしょですが、権威付けのために彰子が裳を着けます。ちなみに、妍子と禎子内親王は枇杷殿に住んでいて、この日は彰子の京極殿に行って、裳着をしています。『栄華物語』によれば、妍子は、彰子姉さんをはじめ、女房や下仕にまでハデにプレゼントをばらまいています。

10月13日、倫子ママの六十歳算賀を主催します。


万寿元年(1024年)

9月14日、高陽院に遷ります。


万寿二年(1025年)


万寿三年(1026年)

正月2日、大饗を行います。

正月19日、出家します。上東門院となります。約38歳です。


万寿四年(1027年)

正月9日、道長パパの体調が悪化します。

11月14日、道長パパのために御読経を行います。

12月4日、道長パパが没します。

12月28日、法成寺で亡き道長パパのための仏事を行います。


長元元年(1028年)

9月13日、京極院に遷ります。

11月4日、亡き道長パパの一周忌法会のために法成寺に遷ります。


長元二年(1029年)

閏2月13日、亡き道長パパのために高陽院で頼通が主催した法華八講に行啓します。


長元三年(1030年)

3月8日、三条宮が火事になったので、高陽院に移ります。

8月21日、法成寺東北院を建立します。


長元四年(1031年)

正月3日、天皇と東宮が朝観行幸/行啓します。

9月25日、石清水八幡宮・住吉社・四天王寺に行啓します(~10月3日)。

閏10月27日、横川如法堂に仮名願文を奉納します。

12月3日、京極院御所が火事になったので、高陽院に遷ります。


長元五年(1032年)

3月2日、頼通がいる白河殿に、後一条天皇と行啓します。

10月18日、菊合を行います。


長元六年(1033年)

5月10日、源行任第に遷ります。

8月19日、新造京極第に遷ります。

11月28日、倫子ママの七十算賀を主催します。


長元七年(1034年)

10月11日、東宮敦良親王の王子の読書始儀を主催します。


長元八年(1035年)

正月2日、天皇と東宮が朝観行幸/行啓します。

3月25日、法華八講を行います(~28日)。


長元九年(1036年)

3月、後一条天皇が病となります。

4月17日、後一条天皇が崩御します。後朱雀天皇が践祚します。

4月22日、亡き後一条院を彰子の御在所である京極院に移します。

5月19日、後一条院を葬送します。

7月10日、後朱雀天皇が即位します。


長暦元年(1037年)

10月23日、後朱雀天皇が朝観行幸します。


長暦二年(1038年)

正月2日、後朱雀天皇が彰子の高陽院に朝観行幸します。


長暦三年(1039年)

5月7日、剃髪して授戒します。

6月27日、内裏が火事になります。


長久元年(1040年)

正月27日、後朱雀天皇が彰子のいる法成寺東北院に朝観行幸します。

9月9日、京極院内裏が火事になったので、後朱雀天皇が彰子のいる陽明門第に遷ります。

9月17日、天皇のために悪夢祭を行います。

10月22日、後朱雀天皇が二条殿内裏に遷ります。


長久二年(1041年)

12月19日、天皇と東宮が新造内裏に遷ります。


長久三年(1042年)

7月頃、病となります。

12月8日、内裏が火事になったので、天皇が太政官朝所に遷ります。


長久四年(1043年)

3月23日、後朱雀天皇と東宮が一条院内裏に遷ります。

10月10日、新造京極院に遷ります。

12月1日、一条院内裏が火事になったので、天皇はいったん高陽院に遷り、のち東三条院に遷ります。


寛徳元年(1044年)

10月9日、病により大赦が行われます。

12月、後朱雀天皇が病となります(夏も)。



寛徳二年(1045年)

正月10日、天皇が病なので、大赦が行われます。

正月16日、後朱雀天皇が譲位して、後冷泉天皇が践祚します。

正月18日、後朱雀院が崩御します。これで、彰子は息子二人ともに先立たれたことになります。彰子約57歳のことです。

閏5月15日、白河院に遷ります。京極院は章子内親王に譲ります。


永承元年(1046年)


永承二年(1047年)

正月ごろ、白河院で天狗騒ぎがおきたので、彰子は基貞宅に遷ります。


永承三年(1048年)


永承四年(1049年)


永承五年(1050年)

3月15日、法成寺新堂供養に行幸します。

10月13日、後冷泉天皇が朝観行幸します。


永承六年(1051年)


永承七年(1052年)

正月6日、病により大赦が行われます。後冷泉天皇は彰子がいる六条第に行幸します。


天喜元年(1053年)

10月13日、宇治平等院に行啓します。


天喜二年(1054年)

6月11日、亡き倫子ママの一周忌法事を主催します。


天喜五年(1057年)

3月14日、法成寺八角堂落慶供養です。


康平元年(1058年)

2月23日、法成寺が火事になります。


康平二年(1059年)

10月12日、法成寺の再建落慶供養が行われます。


康平三年(1060年)

3月11日、平等院に封戸を寄進します。

3月23日、白河院に遷ります。

3月25日、後冷泉天皇が朝観行幸します。


康平四年(1061年)

7月21日、法成寺東北院を再建供養します。


康平六年(1063年)

12月24日、園城寺一条院を建立供養します。


康平七年(1064年)

10月12日、後冷泉天皇が彰子のいる法成寺東北院に朝観行幸します。


暦元年(1065年)

10月18日、天皇が法成寺再建供養に行幸します。


治暦三年(1067年)

5月、高陽院内裏の最勝講に参入します。


延久元年(1069年)

12月27日、東北院に阿闍梨四口を置きます。


延久二年(1070年)

11月7日、病により大赦が行われます。


承保元年(1074年)

10月3日、法成寺阿弥陀堂にて崩御します。約86歳でした。

10月6日、大谷で火葬されます。



年表

では、藤原彰子定子の略年表を示します。年齢は数え年です。


988年:1歳。誕生。誕生日は不明。

999年:12歳。一条天皇の女御に。

1000年:13歳。中宮に(立后)。

1008年:21歳。敦成親王(後一条天皇)を産んだので、道長が外戚としての地位を固める。

1009年:22歳。敦良親王(後朱雀天皇)を出産。

1012年:25歳。皇太后に。

1016年:29歳。敦成親王(9歳)が即位して後一条天皇に。彰子は即位式でともに高御座に登った。

1018年:31歳。太皇太后に転上。

1026年:39歳。出家→院号宣旨を賜わり、上東門院と号す。

「一条天皇の母后(皇太后)の東三条院詮子(藤原兼家の娘、円融院の女御)につづいて二人目の女院である。準太上天皇の待遇を受け、その院号は、宮城の門および居所の名称によって付けられる。上東門院の名称は、道長の土御門第が上東門院と称せられ、彰子の御在所であったことによる」(『国史大辞典』)

1074年:87歳。死去。


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