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藤原行成 「光る君へ」人物事典019

更新日:5月19日




※α版(2023/12/04)。


藤原行成(ふじわらのゆきなり):渡辺大知(わたなべだいち)

まずは、NHK公式の紹介を引用して、大河ドラマ上での設定を確認しておきましょう。



道長よりも6歳下。道長政権下で蔵人頭に抜擢されると、細やかな気遣いで実務に能力を発揮、欠かせない存在として支え続ける。文字の美しさでは右に出る者がおらず、もてはやされた。


行成は「アニメ声が大好きだ!」と自認している口元フェチな(『枕草子』)、書道家です。


ききょう(清少納言)のことがかなり好きで、「餅餤」のエピソード、中国の孟嘗君の漢詩をパロってギリギリラインまでききょうにからんだエピソード、「夜をこめて」の歌のやりとり、『晋書』王徽之パロのエピソードがあります(枕草子)。


一般的には、「こうぜい」と呼ばれることが多いです。

右近衛少将義孝の子で、母は源保光の娘です。行成の祖父に摂政伊尹(これただ)がいました。


しかし、権力者の祖父伊尹が行成が生まれた年に死に、3歳のときには父義孝も亡くしため、青年期は不遇でした。


一条天皇に蔵人頭に抜擢されたら、めきめきと頭角を現し、一条天皇の四納言の一人に入る優秀な実務家となりました。一条天皇には最後まで頼られます。


定子の子の敦康親王よりのポジションにいるかんじですが、藤原道長からの信任も厚いです。娘の婿には、道長の子長家を迎えています。一条天皇には中宮定子がいるにもかかわらず、彰子を立后するために強引な理屈を持ち出した話がクライマックスでしょうか。

あ、定子の子敦康親王を差し置いて、彰子の子敦成親王を立太子するときも、理屈をこねて一条天皇を説得しましたね。

ちなみに、道長が死去した日に行成も死にました。


能筆家としても有名ですね、、、てか、能筆家としてのほうが有名ですよね。和様の大成者ですし。

日記『権記』を書いており、実資の『小右記』、道長の『御堂関白記』、紫式部の『紫式部日記』、清少納言の『枕草子』とともに、ドラマの根本資料となっていると考えられます。


以下、行成中心にリライト予定

999年、冷泉天皇のキサキだった太皇太后昌子内親王が亡くなったので、国母詮子と一条天皇と道長によって、秘密裏にぼんやり娘彰子ちゃんの立后作戦が進められます。

すでに定子が中宮となっているので、一人の天皇に二人目の皇后/中宮を立てるというのは相当に無理筋なんです。

このときの手順を見てみましょう。

1,彰子姉さんが彰子の立后を促す手紙を書き、道長が自分の意向とともに、行成に一条天皇に彰子姉さんの手紙を奏上させました。

2,手紙を見せられた一条天皇は、行成に「どうしよう。。。」と聞ききますが、行成は完全に詮子・道長の味方をして、「当然のことなので賛成です。一条天皇が道長に直接『イエス!イエス!』とおっしゃってください」と答えました。

3,一条天皇は詮子ママへの返事を書いて、行成が詮子に届けました。この返事を見て、詮子はダメ押しのために参内します。

4,行成は続いて詮子の手紙を道長邸で道長に渡して、一条天皇が承諾する方向で考えていることを道長に伝えました。道長はとても喜んで「行成のおかげだ。恩に着る」と言っています。

5,行成は再び内裏に参内した詮子のもとに赴いて、天皇の承諾の意向を詮子に伝えました。これを聞いて、詮子は内裏から退出しました。

6,なお、一条天皇はなお迷っていたのか、後日行成には「ああは言ったけど、まだ誰にも言わないでくれ」と伝えています。


1000年正月28日、正式に詮子立后の命が下りました。

この日、行成は日記『権記』に、中宮定子がいるにもかかわらず彰子を立后する論理を言い訳がましく書き残しています。

その論理をまとめると、


后への給与には神事のための経費も含まれている。

しかし、東三条院詮子も皇后遵子も中宮定子もみんな出家しているので、神事を行える者がいない。

神事をちゃんと行うためにも、出家していない后が必要であす。

つまり、ぼんやり娘彰子ちゃんを后にする必要があったのだ。ドヤっ!

なんなら、おねショタ定子ちゃんを中宮クビにしちゃってもいいかもね♡


てな感じです。


年表

では、藤原行成の略年表を示します。年齢は数え年です。


972年:1歳。誕生。

995年:24歳。蔵人頭(一条天皇)。

999年:28歳。一条天皇崩御。

→権中納言、大宰権帥→

1020年:49歳。権大納言。

1027年:56歳。12月4日、死去(現、権大納言)。









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