【目次】
藤原隆家(ふじわらのたかいえ)
まずは、NHK公式の紹介を引用して、大河ドラマ上での設定を確認しておきましょう。
父親の力が強くて、若い頃の出世スピードがハンパないです。
すぐ自滅しちゃうんですけどね。
大学院などで『小右記』を読んでいたのですが、なんか隆家は周りの空気が読めてない感の人だった記憶があります。
28話にして、さらにキャラが立ちそうな予感です。
キャスト:竜星涼(りゅうせいりょう)
東京都出身の俳優です。大河ドラマは初出演です。
解説:実際の藤原隆家
草稿:以下の引用は『国史大辞典』
平安時代中期の公卿。関白道隆の子。母は高階成忠の女、貴子。中宮定子の弟。天元二年(九七九)生まれる。永祚元年(九八九)に従五位下となり、正暦五年(九九四)に十六歳で従三位参議になり、翌長徳元年(九九五)には権中納言に昇格し、二ヵ月後に正任中納言となっている。父の政治力により若年で台閣に連なったが、その死後長徳二年に花山法皇に矢を射かけ東三条院を呪詛するなどの罪で、兄伊周とともに貶降され、出雲権守に遷されている。この左遷は、対立していた叔父藤原道長との政争における敗北を意味している。その後長徳四年に至り罪を免され帰京し、長保四年(一〇〇二)に権中納言に復任している。長和三年(一〇一四)には大宰権帥を兼任し、大宰府へ来ていた唐人医師に患っていた眼病を診てもらうため、赴任している。権帥在任中、寛仁三年(一〇一九)には刀伊の入寇を撃退している。治安三年(一〇二三)に中納言を辞し、男経輔を権右中弁に申任し、その後、大蔵卿や再度の大宰大弐に任じた。寛徳元年(一〇四四)正月一日没。六十六歳。
1~3回:まひろ初期(977~983年)までの隆家
天元二年(979年)約0歳
この年、隆家が生まれます。幼名は阿古君です。兼家じいちゃんは右大臣、道隆パパは右中将まで昇っています。
4~11回:花山天皇期(984~986年)ごろの隆家
寛和二年(986年)約7歳
6月24日、兼家じいちゃんが一条天皇の摂政となります。
7月20日、道隆パパが権大納言となります。
12回:「思いの果て」(987~989年)ごろの隆家
永祚元年(989年)約10歳
正月7日、従五位下となります。
2月23日、道隆パパが内大臣となります。
13回「進むべき道」・14回「星落ちてなお」(990年)ごろの隆家
正暦元年(990年)約11歳
正月29日、一条天皇の侍従となります。
定子姉さんが入内して女御となり、道隆パパが5月に摂政となり、兼家じいちゃんが7月に没します。
7月10日、右兵衛権佐となります。
10月5日、定子姉さんが中宮となります。
正暦二年(991年)約12歳
正月7日、従五位上となります
正暦三年(992年)約13歳
8月28日、左少将となります。
12月7日、正五位下となります。
15回「おごれる者たち」(993年)ごろの隆家
正暦四年(993年)約14歳
正月3日、前相模守を捕まえます。
正月7日、従四位下となります。
3月9日、左中将となります。
4月23日、道隆パパが関白となります。
11月13日、従四位上となります。
このころ、清少納言が定子姉さんに仕え始めます。
16~18回「岐路」(994~995年)ごろの隆家
正暦五年(994年)約15歳
正月13日、正四位下となります。
2月、定子の積善寺供養に列席します。このときの様子は『枕草子』第259段に詳しく書かれています。それは、牛車に乗るときのあれこれエピソードですが、清少納言は貴公子の伊周と隆家が近くにいたのでドギマギしています。
8月28日、従三位となります。
長徳元年(995年)約16歳
4月6日、権中納言となります。
4月10日、道隆パパが亡くなります。
4月27日、叔父の道兼が関白となります。
5月8日、道兼も亡くなります。
5月11日、叔父の道長が内覧となります。
6月19日、道長が右大臣となります。
6月19日、中納言となります。
7月24日、伊周兄さんと道長が激しく口論します。
7月27日、隆家の従者と道長の従者が、闘乱におよびます。
8月2日、隆家の従者が、道長の随身を殺害します。
8月3日、隆家が朝廷出禁となります。
19~21回:長徳の変(996年)ごろの隆家
長徳二年(996年)約17歳
正月16日、伊周と隆家の従者が花山院の従者と闘乱します。長徳の変。
4月24日、伊周は大宰権帥に、隆家は出雲権守に左遷されます。
5月1日、隆家は出雲に送られます。
5月4日、伊周が出立します。
二人ともゴネて、左遷先に行こうとしません。
5月15日、伊周を播磨に、隆家を但馬に安置するという、よく分からないことになります。身分が高いヤツはゴネ得ですね。
10月7日、伊周が密かに上京します。高階貴子ママに会いたい一心でしょうか。
10月11日、伊周はしっしと大宰府に追い返されます。
22~26回:長徳年間(997・998年)ごろの隆家
長徳三年(997年)約18歳
4月5日、伊周と隆家が召還されます。
5月21日、隆家が入京します。
12月、伊周が入京します。
長徳四年(998年)約19歳
10月23日、兵部卿となります。
28回「一帝二后」(1000年)ごろの隆家
長保二年(1000年)約21歳
12月16日、定子姉さんが崩御します。約24歳でした。
29回「母として」(1001年)ごろの隆家
長保三年(1001年)約22歳
このころ、藤原宣斉の娘と結婚します。
このころ、清少納言の『枕草子』が成立します。
30回「つながる言の葉」((1002~)1004年前半)ごろの隆家
長保四年(1002年)約23歳
9月24日、権中納言に復任します。
10月22日、昇殿を聴されます。
この年、良頼が生まれます。母は、藤原宣斉の娘です。この後、隆家と何人かの妻との間には、分かっているだけで10人の子女が生まれます。子沢山ですね。
この年、妹の原子(居貞親王と結婚していた)が亡くなります。
長保五年(1003年)約24歳
5月27日、道長の宇治遊覧にお供します。
11月5日、正三位となります。いいご身分やなあ。
32回「誰がために書く」(1005年)ごろの隆家
寛弘二年(1005年)約26歳
正月2日、斉信の先駆の冠を笏で叩き落とします。オマ、成長という言葉を知らんのか。。。斉信は激怒して、正月5日に牛車ごと突っ込んできて隆家の牛車の榻をブチ折ります。
2月20日、勅授帯剣を聴されます。
3月8日、中宮彰子の大原野行啓に、桜色の下襲と山吹色の表袴というハデな格好で付き従います。定子ねえちゃんが責任を投げ出した、あの大原野神社の祭祀です。
このころ、源兼資の娘と結婚します。
35回「中宮の涙」(1007年後半)ごろの隆家
寛弘四年(1007年)約28歳
8月2日、道長が金峯山詣に出立します。
ドラマでは、ドラマでは、伊周が平致頼に暗殺させようとしたときに、隆家のジャマが入りました。いろいろあって、伊周と隆家兄弟の見せ場となりました。
その後の隆家
寛弘五年(1008年)約29歳
2月17日、崩御した花山院の葬送に奉仕します。22日の法事にも参列しています。矢を射かけたあのころが懐かしいね。
4月13日、彰子が出産のために土御門殿に里帰りすることに供奉します。ねえ、どんな気持ち? 隆家、今どんな気持ち?
11月1日、敦成親王(彰子の子)の五十日の儀に参列します。
長保四年(1002年)
権中納言に復帰します。
寛弘六年(1009年)約30歳
正月30日、彰子と敦成親王と道長が呪詛されます。
2月20日、伊周が朝廷に出禁にされます。
3月4日、中納言となります。隆家は疑われてないってこと?
6月13日、朝廷出禁が解かれます。
寛弘七年(1010年)約31歳
正月28日、伊周兄さんが亡くなります。
寛弘八年(1011年)約32歳
7月9日、一条天皇の遺骨を拾います。
7月11日、三条天皇の恩顧の公卿として名があがります。なんで?
長和元年(1012年)約33歳
6月17日、道長を呪詛する落書きが見つかります。
6月20日、道長の病気を喜んでる公卿リストに名があがります。
長和二年(1013年)約34歳
2月27日、盗賊が故伊周邸(室町第)に入ります。
3月16日、眼病により、皇后宮大夫を辞任します。
長和三年(1014年)約35歳
正月29日、熊野に詣でます。
11月7日、大宰権帥となります。
長和四年(1015年)約36歳
4月21日、正二位となります。大宰府に赴任します。
大宰府に行っている間に、三条天皇から後一条天皇に代わったり、頼通が摂政となったり、なによりも定子姉さんの唯一人の男子で、一応中関白家の最後のワンチャン敦康親王が亡くなります。
寛仁三年(1019年)約40歳
3月28日、刀伊の入寇です。
4月13日、刀伊の入寇を撃退します。
11月、大宰権帥を辞めたいと言います。
寛仁四年(1020年)約41歳
この年、京に帰ってきます。
10月23日、長女の結婚が破談します。
治安元年(1021年)約42歳
2月1日、長女が敦儀(あつのり)親王(三条天皇と娍子の子)と結婚します。
治安三年(1023年)約44歳
12月15日、中納言を辞任して、大蔵卿となります。
万寿二年(1025年)約46歳
この年、熊野に詣でます。
長元元年(1028年)約49歳
8月23日、長女を亡くします。
長暦元年(1037年)59歳
8月9日、大宰権帥になります。
長久元年(1040年)約61歳
4月10日、藤原定任殺害事件に関与?何があった?
寛徳元年(1044年)約65歳
正月1日、亡くなります。
年表
藤原隆家の略年表を示します。年齢は数え年です。
979年:1歳。誕生。
989年:11歳。従五位下。
994年:16歳。従三位参議。
995年:17歳。権中納言→中納言
996年:18歳。「花山法皇に矢を射かけ東三条院(詮子)を呪詛するなどの罪で、兄伊周とともに貶降され、出雲権守に遷されている。この左遷は、対立していた叔父藤原道長との政争における敗北を意味している」(国史大辞典)
998年:20歳。赦免→帰京
1002年:24歳。復任権中納言。
1014年:36歳。兼任大宰権帥。眼病を大宰府へ来ていた唐人医師に診てもらうために大宰府赴任。
1019年:41歳。刀伊の入寇を撃退。
1023年:45歳。中納言を辞任。
大蔵卿や大宰大弐を歴任。
1044年:66歳。正月1日、死去。
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