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執筆者の写真順大 古川

藤原斉信 「光る君へ」人物事典018

更新日:9月23日

【目次】

12回:「思いの果て」(987~989年)ごろの斉信

13回「進むべき道」・14回「星落ちてなお」(990年)ごろの斉信

15回「おごれる者たち」(993年)ごろの斉信

22~26回:長徳年間(997・998年)ごろの斉信

27回「宿縁の命」(999年)ごろの斉信

28回「一帝二后」(1000年)ごろの斉信

30回「つながる言の葉」((1002~)1004年)ごろの斉信


藤原斉信(ふじわらのただのぶ):金田哲

まずは、NHK公式の紹介を引用して、大河ドラマ上での設定を確認しておきましょう。



道長、公任とともに青春時代を過ごす。道長の長兄・道隆のもとに仕えるも、道長が出世しはじめると、変わり身の早さを見せ、腹心として地位を築いていく。清少納言とも交流がある。


ききょうの元ダンナの上司で、ききょうにも言い寄ります。


「なりのぶ」と読まれることもあります。

太政大臣藤原為光の次男で、母は左少将藤原敦敏の娘です。

一条朝の四納言の一人と称された、優秀な人のようです。

ドラマの紹介で「変わり身の早さ」とありますが、はんにゃ金田の動きで変わり身してほしいところです。

雪のシーンが一番はんにゃっぽかったです。


キャスト紹介:金田哲(かなださとし)

1986年生まれのお笑い芸人です。ようは、はんにゃですね。吉本興業東京本社所属です。大河ドラマは初出演です。


1~3回:まひろ初期(977~983年)ごろの斉信

道長の1歳年下で、まだまだガキンチョです。ドラマでは、まひろの3歳年上です。


天元四年(981年)約14歳

叙爵されて大人社会デビューします。このくらいの年齢でのデビューが普通で、道隆とか道長の家系がおかしい(早すぎ)だけです。



4~11回:花山天皇期(984~986年)ごろの斉信

永観二年(984年)約17歳

侍従となります。


寛和二年(986年)約19歳

左少将となります。



12回:「思いの果て」(987~989年)ごろの斉信

13回「進むべき道」・14回「星落ちてなお」(990年)ごろの斉信

15回「おごれる者たち」(993年)ごろの斉信

16~18回「岐路」(994~995年)ごろの斉信

正暦五年(994年)約27歳

蔵人頭(一条天皇)となります。



19~21回:長徳の変(996年)ごろの斉信

長徳二年(996年)約29歳

参議となります。道隆家と道長家がおかしいだけで、十分以上な出世ペースです。



22~26回:長徳年間(997・998年)ごろの斉信

27回「宿縁の命」(999年)ごろの斉信

28回「一帝二后」(1000年)ごろの斉信

29回「母として」(1001年)ごろの斉信

長保三年(1001年)約34歳

従三位権中納言となります。



30回「つながる言の葉」((1002~)1004年)ごろの斉信

31回「月の下で」(1004年)ごろの斉信

長保六年/寛弘元年(1004年)

公任の位階を超えて従二位となります。そのせいで、公任が一年も働かなくなります。

ドラマでは、すねた公任を慰めに行きました。あれって、火に油を注ぐ結果にならないですかねえ。ロバート実資が来たおかけで助かってますよね。




寛弘二年(1005年)約歳

正月2日、隆家が、斉信の先駆の冠を笏で叩き落としやがります。なにすんねん!斉信は激怒して、正月5日に牛車ごと突っ込んできて隆家の牛車の榻をブチ折ります。


35回「目覚め」(1006年後半~1007年)ごろの斉信

寛弘三年(1006年)

6月27日、興福寺の定澄が道長に訴えにきた日に、斉信は一条天皇に「オレは検非違使の別当を辞めるぞー!」という辞表を叩きつけて受理されます。

ドラマで、7月13日に、検非違使を使って興福寺の大衆を内裏から追い払いますが、そのときの検非違使別当は、斉信の後任の藤原懐平です。


36話「待ち望まれた日」

寛弘五年(1008年)

10月16日、一条天皇と彰子の間に敦成親王が生まれた関係で、正二位となります。これで、道長と並んだことになります。

10月17日、敦平親王家の別当となります。


解説:実際の藤原斉信・その後の斉信

政務に堪能で、一条朝の四納言の一人と称されました。『江談抄』『古事談』『枕草子』などにも逸話がみえる有名人です。とくに『枕草子』が。




寛弘六年(1009年)

正二位権大納言となります。


寛仁四年(1010年)

大納言となります。


長和二年(1013年)約19歳

東三条殿が火事になったということで、道長の娘で、居貞親王の奥さんの妍子サマ藤原斉信の郁芳門第に押しかけて来て、居座ります。メイワク!

さらに、妍子は連日宴会を開いてパーティーピーポーしやがります。メイワク!


長元八年(1035年)約68歳

3月23日、突然死にました。『公卿補任』には「病無くして死す」とあります。


年表

では、藤原斉信の略年表を示します。年齢は数え年です。


967年:1歳。誕生。

981年:15歳。叙爵。

984年:18歳。侍従。

986年:20歳。左少将。

994年:28歳。蔵人頭(一条天皇)。

996年:30歳。従四位上、参議。

1001年:35歳。従三位、権中納言。

1009年:43歳。正二位、権大納言。

1020年:54歳。大納言。(この間、中宮大夫(彰子)・民部卿などを兼任)

1035年:69歳。死去。『公卿補任』によると、「病無くして死す」。

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