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執筆者の写真順大 古川

平致頼:「光る君へ」人物事典081

更新日:12月1日


【目次】




平致頼(たいらのむねより):中村織央

まずは、NHK公式の紹介を引用して、大河ドラマ上での設定を確認しておきましょう。


平安時代中期の軍事貴族。伊勢国に勢力を張り、同族の平維衡と争った。


第34話 の人事会議(除目)のときに話題に上がっていた平維衡(これひら)のライバルです。維衡とは10年近くも伊勢国で「仁義なき戦い 伊勢死闘篇」を続けてきました

生年は不詳ですが、ドラマに登場したときで、40代後半ぐらいの年齢感だと思います。


キャスト:中村織央(なかむらおずの)

1986年生まれ。東京都出身の俳優です。esArtist所属所属です。

大河ドラマでは「おんな城主直虎」(石川数正)に出演しています。



解説:実際の致頼・その後の致頼

当代を代表する武士の一人で、『古事談』『義貞記』などに勇武を語る説話があります。源頼信・藤原保昌(やすまさ)(←なお、あかね(和泉式部)の未来の夫)・平維衡とともに四天王と称されます。武蔵守公雅の子で、平五大夫もとよばれました。

典拠は『今昔物語集』ではありますが、『国史大辞典』は致頼の「本領はむしろ傭兵隊長的なところにあり」とし、天延二年(974年)に祇園が延暦寺の末寺化したときに、父公雅とともに郎等を祇園方に派遣している話を紹介しています。ちなみに、このとき、致頼が派遣した傭兵たちは、相手に恐れをなして逃げまどっています。使えねえヤツら。。。


22~26回:長徳年間(997・998年)ごろの平致頼

とうとう、長徳四年(998年)に闘乱をとがめられて、朝廷に呼び出しをくらいました。そのとき、維衡は早々に詫び状を検非違使庁に出してきたのに対して、致頼は詫びてこなかったので、隠岐に流されました。その後、長保三年(1001年)に許されて、翌年に本位に復しています。

なお、維衡のほうは京都に近い淡路に流されて、1年で許されています。さらに言うと、この「仁義なき戦い 伊勢死闘篇」は、二人の子どもの代まで続きます

あとの時代で、平維衡が伊勢平氏の祖となって、平清盛につながっているのを見ると、最終的には致頼組系は敗北したんでしょうねえ。




35回「中宮の涙」寛弘四年(1007年後半)ごろの平致頼

8月9日、都で、伊周隆家が、武者の平致頼をつかって道長の暗殺を計画しているという噂がたちます。真相は不明ながら、結果的にはなにも起こりませんでした。

その後の平致頼

寛弘八年(1011年)の10月2日に没します。

あ、そういえば、致頼の子の致経は頼通に仕えるようになります。



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