【目次】
平致頼(たいらのむねより):中村織央
まずは、NHK公式の紹介を引用して、大河ドラマ上での設定を確認しておきましょう。
平安時代中期の軍事貴族。伊勢国に勢力を張り、同族の平維衡と争った。
第34話 の人事会議(除目)のときに話題に上がっていた平維衡(これひら)のライバルです。維衡とは10年近くも伊勢国で「仁義なき戦い 伊勢死闘篇」を続けてきました。
生年は不詳ですが、ドラマに登場したときで、40代後半ぐらいの年齢感だと思います。
キャスト:中村織央(なかむらおずの)
1986年生まれ。東京都出身の俳優です。esArtist所属所属です。
大河ドラマでは「おんな城主直虎」(石川数正)に出演しています。
解説:実際の致頼・その後の致頼
当代を代表する武士の一人で、『古事談』『義貞記』などに勇武を語る説話があります。源頼信・藤原保昌(やすまさ)(←なお、あかね(和泉式部)の未来の夫)・平維衡とともに四天王と称されます。武蔵守公雅の子で、平五大夫もとよばれました。
典拠は『今昔物語集』ではありますが、『国史大辞典』は致頼の「本領はむしろ傭兵隊長的なところにあり」とし、天延二年(974年)に祇園が延暦寺の末寺化したときに、父公雅とともに郎等を祇園方に派遣している話を紹介しています。ちなみに、このとき、致頼が派遣した傭兵たちは、相手に恐れをなして逃げまどっています。使えねえヤツら。。。
22~26回:長徳年間(997・998年)ごろの平致頼
とうとう、長徳四年(998年)に闘乱をとがめられて、朝廷に呼び出しをくらいました。そのとき、維衡は早々に詫び状を検非違使庁に出してきたのに対して、致頼は詫びてこなかったので、隠岐に流されました。その後、長保三年(1001年)に許されて、翌年に本位に復しています。
なお、維衡のほうは京都に近い淡路に流されて、1年で許されています。さらに言うと、この「仁義なき戦い 伊勢死闘篇」は、二人の子どもの代まで続きます。
あとの時代で、平維衡が伊勢平氏の祖となって、平清盛につながっているのを見ると、最終的には致頼組系は敗北したんでしょうねえ。
35回「中宮の涙」寛弘四年(1007年後半)ごろの平致頼
8月2日、道長が金峯山詣に出立します。
その後の平致頼
寛弘八年(1011年)の10月2日に没します。
あ、そういえば、致頼の子の致経は頼通に仕えるようになります。
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