top of page
執筆者の写真順大 古川

あかね(和泉式部)「光る君へ」人物事典071

更新日:10月8日


【目次】



あかね(和泉式部(いずみしきぶ)):泉里香

まずは、NHK公式の紹介を引用して、大河ドラマ上での設定を確認しておきましょう。


『和泉式部日記』の作者。まひろ(紫式部)とは、四条宮の和歌を学ぶ会で知り合う。親王二人に愛された、恋多き華やかな女性であり、和歌には突出した才能を持つ。やがて彰子の女房となる。


全女流歌人中ナンバークラスに歌がうまい魔性の女♡です。大河ドラマだと、まひろの5歳ぐらい年下になると思います。

なお、あかねの夫大江雅致(おおえのまさむね)と、赤染衛門の夫大江匡衡は兄弟だという説もあります。あかねと赤染衛門とのキャラの違いに注目ですね。

本名は不明です。ドラマ名の「あかね」は何が元ネタなんでしょうか。あ、「和泉式部」の呼び名は、夫の橘道貞が和泉守をしていたことからきています。ドラマでは、そう呼ばれることを嫌がっていましたね(38話)。宮の宣旨に一喝されて不満そうでした。



キャスト:泉里香(いずみりか)

1988年生まれのファッションモデル、グラビアアイドル、女優です。スターダストプロモーション所属です。

大河ドラマは初出演です。


解説:実際の和泉式部

『紫式部日記』に「おもしろう書きかはしける」とあるので、実際にも紫式部と手紙をかわす仲だったようです。


あらざらむ この世のほかの 思ひ出に 今ひとたびの 逢ふこともがな

「小倉百人一首」


越前守大江雅致と越中守平保衡の娘で、かなり歌がうまい歌人です。勅撰集に合計247首という女流歌人中ナンバーワンの数の歌が選出されています。中古三十六歌仙のひとりでもあります。「和泉式部集」や「和泉式部日記」があります。

和泉式部は女房名で、本名は不明です。


為尊親王や敦康親王との熱い恋を『和泉式部日記』に告白的に書き記しました。まあ、暴露本ですね。当時の目から見てもハレンチな関係だったようで、敦道親王の宮妃は邸を出ていくし、あかねは父親から勘当されています。道長からは「うかれ女」と言われました。


スキャンダラスな人生に比べて(スキャンダラスな人生だから?)、歌は超絶上手くて、以下のように絶賛されています。


「歌は、いとをかしきこと」「口にまかせたることどもに、かならずをかしき一ふしの、目にとまる詠みそへはべり」(『紫式部日記』)


「即興即詠の日常詠はもとより、定数歌や連作、題詠など制約のある詠作のなかにも、式部の鋭敏な感性と揺らめく情念はみごとに形象化されており、新鮮で自由な用語を駆使したその叙情歌の数々は、平安中期最高の歌人の名にふさわしい作品群として輝いている」(『日本大百科全書』)


「おのずと口をついて出る当意即妙の即興歌に天性の才能の輝きをみせる歌人であった。湧き出てくる肉声を歌のことばに高めることのできる、すぐれた感覚と能力をそなえた詩人であった。一途な歌いぶりの言葉の背後には、自身に対する冷徹な自意識や、冷静な達観を感じさせるものがあり……情念のむなしさとでもいえるものを自得した歌人であった」(日本古典文学全集『和泉式部日記』)


19~21回:長徳の変(996年)ごろの和泉式部

あかねの父親の大江雅致(おおえのまさむね)と、母親の介内侍(すけのないし)は二人とも太皇太后・昌子内親王に仕えていました。昌子内親王は冷泉院のキサキです。

また、あかねの結婚相手も父雅致の部下、すなわち昌子内親王に仕えていた橘道貞なので、あかねも昌子内親王に仕えていた可能性もあります。武田早苗氏は出仕を否定しています(『和泉式部 人と文学 日本の作家100人』)。

仕えていなかったとしても、昌子内親王は病気で雅致邸(実際には部下の道貞邸を留守中に借りていたものらしい)に移り住んでいたので、昌子内親王のお世話になにかしら関わっていたと考えてもいいのかなと思っています。


そして、このころに橘道貞と結婚したと考えられています。同居状態だからそうなるよね♡ あかね(和泉式部)20歳前後と推定されます。なお、夫の橘道貞は、あかねより10歳以上年上です。


22~26回:長徳年間(997・998年)ごろの和泉式部

結婚後も太皇太后・昌子内親王に仕え続け、長徳年中に娘の小式部を生んだと推定されています。

このときはもう、小式部はホントにあかねの子なの? と疑う人がいたようなので、あかねは若いころから浮名をはせていたのかもしれません。今ならDNA鑑定待ったなしです。



27回「宿縁の命」(999年)ごろの和泉式部

長保元年(999年)このころ、あかねの父雅致も、夫橘道貞も太皇太后・昌子内親王に仕えていました。あかねの母親も昌子内親王に仕えていたようです(『中古歌仙伝』)。

あかねも昌子内親王に仕えていた可能性もあります。


7月18日、藤原道長の子・田鶴(頼通)が病の療養のために、あかねが住んでいた橘道貞邸にやって来ます。、、、なんで、病だったら橘道貞邸に来るんだろ? 方角的な問題??


夫は和泉守となり、9月には和泉国に在任しています。あかねも任国へ下ったことがあるようですが、基本的には京にいたと考えられています。



しかし、12月の上旬に太皇太后の昌子内親王は橘道貞で崩御します。ドラマでは、安倍晴明が扇の上に石を置いて、道長に「后」のポジションが一つ空いたという話をしていました。

ということで、このときあかねが昌子内親王に仕えていたとしたら、夫婦と両親の4人が一気に失業したかもしれないということです。まあ、夫は受領なんで裕福ですが。



28回「一帝二后」(1000年)ごろの和泉式部

前年の末に太皇太后昌子内親王が崩御した後は、しばらくはそのまま都の道貞邸で暮らしたようです。


この年から、有名な話が始まります。為尊(ためたか)親王との恋愛関係が始まったのです(前年からという説もあります:武田説)。

このあたりのあかね(和泉式部)の人生の出来事はいくつか分かっているのですが、時系列がはっきりとしないことが多いです。

以下の出来事は1000年~の出来事です。為尊親王との恋愛スタート、為尊親王の死、敦康親王との恋愛スタートと同居、敦康親王の死、彰子に仕えるという時系列が分かっている出来事の前後のどこかに、以下の出来事が挟まります。


・道貞と別居

・道貞と離婚(定説的にはW不倫の結果として離婚っぽい)

・親戚の家に住む

・親戚の家から出る

・父親から勘当

・娘の小式部と別居


なお、これより後の時期になっても、和泉式部は道貞を匂わせる歌を詠じています。




29回「母として」(1001年)ごろの和泉式部

為尊親王との恋愛関係は続きます。夫や家族とどうなったのかは分っかりませ~ん。



30回「つながる言の葉」((1002~)1004年)ごろの和泉式部

長保四年(1002年)

6月、為尊親王が死にます。為尊親王の妻は8月に尼となります。

一方で、その一周忌も来ないうちに、和泉式部は今度は為尊親王の弟の敦道親王から口説かれます。


長保五年(1003年)

12月、宮邸に引き取られて、召人として敦道親王と生活をともにします。敦道親王の妻はバチギレして実家に帰ろうとします。

ドラマでは、敦康親王のもとから公任の四条宮の勉強会に通って来ていたということになります。


長保六年/寛弘元年(1004年)

正月、敦道親王の妻が実家に帰ります。あかねを阻むものは誰もいません!

2月、邪魔な敦道親王ヨメがいなくなったので、わざわざ牛車をハデに飾り立てて藤原公任の白河院に花見に行きます。ホントに花見とったんかあ、ワレェ。


ドラマでは、ついにあかねが登場しました。

あかね(和泉式部)って、”お色気キャラ”でくるかと思ってたら、”変なのキター!キャラ”だったのでおもしろビックリです。天才肌なのはイメージ通りです。


このとしに、親王兄弟の家庭をメチャクチャにしてやった暴露本を『和泉式部日記』として書きます。

ドラマでは、まひろと会ったことが、あかねを焚き付けたのでしょうか。。。あ、まひろが直接的に煽りましたね。



32回「誰がために書く」(1005年)ごろのあかね

寛弘二年(1005年)

4月、敦道親王と賀茂祭見物に行きます。しゃあしゃあと敦道親王と同じ牛車に乗って行きます。ヨメを追い出したのでやりたい放題です。

この年に敦道親王の子(永覚)を生んだ可能性もあります。


35回「中宮の涙」(1007年後半)ごろのあかね

寛弘四年(1007年)

10月2日、敦道親王も死にます。さすがに、この年中に宮廷から出ていったようです。


この間、道綱と歌の贈答をしています。道綱も、あわよくば的にあかね(和泉式部)を狙っていたみたいです。



38回「まぶしき闇」(1009年前半)ごろのあかね

寛弘六年(1009年)約35歳

3月・4月ごろ、和泉式部は、娘の小式部といっしょに中宮彰子に仕えます。武田氏は、小式部は一年くらい遅れて仕えたのではとしています。

ドラマでは、「和泉式部と呼ばれることを嫌がっていましたね(38話)。宮の宣旨に一喝されて不満そうでした。あと、小式部は仕えませんでした。


また、道長の家司藤原保昌と再婚します。保昌は20歳ほど年上です。保昌が丹後守に任じられたときは丹後へも下りましたが、夫婦生活は円満とは言えなかったようです。



その後の和泉式部

長和五年(1016年)

4月、そういえば昔食ったような気がする橘道貞が没します。


寛仁二年(1018年)

正月、摂政藤原頼通の大饗の屏風の歌を詠みます。


寛仁四年(1020年)

もの足りない夫保昌が丹後守になったので、田舎モンしかいない丹後について行きます。ガチプリンスの兄弟を貪り尽くしたあかねにとっては、丹後の男とかじゃがいも以下に見えたことでしょう。平安時代の日本にじゃがいもありませんが。


治安二年(1022年)

帰京して、彰子に練絲を贈ります。欲求不満が限界を突破したんで、帰ってきたんでしょうか?


万寿二年(1025年)

11月、娘の小式部に先立たれてしまいます。和泉式部は50歳ぐらいで、小式部は30歳ぐらいでした。


万寿四年(1027年)

10月、皇大后藤原妍子の七七日(49日)の法事で、保昌にかわって玉の飾りを献上して、詠歌を添えました。


その後、何歳まで和泉式部が生きていたのかは分かっていません。山中裕『和泉式部(人物叢書)』では、長元八年(1035年)ごろか、となっています。

なお、夫の保昌は、長元九年(1036年)まで生きていました(79歳)。


年表

では、和泉式部の略年表を示します。年齢は数え年です。


975年ごろ:1歳。誕生。

996年ごろ:20歳ぐらい。橘道貞と結婚。

(この間、娘の小式部を産む)

1000年:25歳ぐらい。為尊親王と恋愛。

1002年:27歳ぐらい。為尊親王が死ぬ(26歳)。

1003年:28歳ぐらい。敦道親王(為尊親王の弟)と恋愛→敦道親王の邸に入る。

1008年:34歳ぐらい。敦道親王(27歳)と死別。

1009年:35歳ぐらい。中宮彰子に仕える。娘の小式部もいっしょに仕える。

(この間、藤原保昌と再婚)

1025年:50歳ぐらい。娘の小式部に先立たれる。

(その後は不明)



閲覧数:182回0件のコメント

最新記事

すべて表示

תגובות


bottom of page