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執筆者の写真順大 古川

藤原詮子 「光る君へ」人物事典010

更新日:10月8日


【目次】


藤原詮子(ふじわらのあきこ):吉田羊

まずは、NHK公式の紹介を引用して、大河ドラマ上での設定を確認しておきましょう。



道長の姉。円融天皇に入内し、父の望みどおり皇子をもうける。その懐仁(やすひと)親王(のちの一条天皇)を溺愛、成人しても常に寄り添い、次第に宮廷での勢力を増していく。


第2話からしばらくは984年の話ですが、このとき詮子は23歳(数え年)です。

第4話で、詮子には懐仁親王しかいなくなる様子が描かれました。また、「もう薬は飲まない」的なことも言いますが、『栄花物語』によると、詮子は後に医者と薬による治療を拒否って、まもなく死に至ることとなります。


キャスト:吉田羊(よしだよう)

福岡県出身の女優です。大河ドラマでは「江~姫たちの戦国~」「平清盛」「真田丸」に出演しています。


27回「宿縁の命」(999年)ごろの詮子

昨年以来、詮子は一条院に住んでいました。一条院は、昔、藤原為光が住んでいた家です。そう、長徳の変のときに花山法皇が伊周・隆家に矢を射かけられたところです。


6月14日に内裏が火事で焼亡したので、一条天皇が定子・元子・義子と、ヨメを三人引き連れて、詮子ママの家まで乗り込んできました。

そこで詮子ママは、昨年まで住んでいた土御門邸、すなわち道長倫子の愛の巣に出戻りました。(7月1日)

闇覚醒倫子ちゃんが、ため息をつく音が聞こえてきそうです。


999年、冷泉天皇のキサキだった太皇太后昌子内親王が亡くなったので、国母詮子と一条天皇と道長によって、秘密裏にぼんやり娘彰子ちゃんの立后作戦が進められます。

すでに定子が中宮となっているので、一人の天皇に二人目の皇后/中宮を立てるというのは相当に無理筋なんです。

このときの手順を見ると、国母たる詮子が最も積極的に行動していることが分かります。

1,彰子姉さんが彰子の立后を促す手紙を書き、道長が自分の意向とともに、行成に一条天皇に彰子姉さんの手紙(「院御書」)を奏上させました。

2,手紙を見せられた一条天皇は、行成に「どうしよう。。。」と聞ききますが、行成は完全に詮子・道長の味方をして、「当然のことなので賛成です。一条天皇が道長に直接『イエス!イエス!』とおっしゃってください」と答えました。

3,一条天皇は詮子ママへの返事を書いて、行成が詮子に届けました。この返事を見て、詮子はダメ押しのために参内します。

4,行成は続いて詮子の手紙を道長邸で道長に渡して、一条天皇が承諾する方向で考えていることを道長に伝えました。道長はとても喜んで「行成のおかげだ。恩に着る」と言っています。

5,行成は再び内裏に参内した詮子のもとに赴いて、天皇の承諾の意向を詮子に伝えました。これを聞いて、詮子は内裏から退出しました。

6,なお、一条天皇はなお迷っていたのか、後日行成には「ああは言ったけど、まだ誰にも言わないでくれ」と伝えています。


1000年正月28日、正式に詮子立后の命が下りました。詮子はまた参内して一条天皇にまた直談判したようです。どうやら愛する定子ちゃんの廃后までも匂わせられたようで、ここまで全方位を囲まれたら、20歳に過ぎない一条天皇は抗すすべはないでしょう。

この日、行成は日記『権記』に彰子立后の論理を言い訳がましく書き残しています。この論理については、行成のページをご参照ください(→https://www.onestep-mugi.com/post/hikarukimie_yukinari01)

2月に彰子が中宮となって、4月には彰子が参内しますが、道長派4月下旬から病気になって、5月には辞表を提出するような事態になります。

また、詮子も重病におちいりました。



29回「母として」(1001年)ごろの詮子

この年、詮子は40歳を迎えました。

2月、昨年末に定子から生まれた媄子内親王の面倒を見れる人がいなかったので、詮子は媄子内親王を引き取ります。


9月18日、詮子の体調が悪く、40歳の賀は延長されます。

10月9日、詮子の40歳の賀が行われます。このとき、童舞が行われます。しかし、道長の長男で倫子の子の約9歳の田鶴の舞よりも、道長の次男で明子の子の約8歳の巌君の舞のほうがやたらと上手かったので、一条天皇も公卿たちも遠慮なく巌君を褒め称えました。

実際の道長は倫子の子を露骨に優遇する人だったので、バチギレして席を起ってしまいます。

、、、詮子姉さん的には、道長の態度は相当に不愉快だったのではないでしょうか。


ドラマでは、詮子は10月9日に倒れてそのままだったのですが、実際の詮子姉さんは10月27日に石山寺に詣でています。


閏12月にはいると、詮子の病状(腫物)が悪化します。

ドラマでは、父兼家と円融天皇のトラウマから、詮子は薬を飲みませんでした。

閏12月16日に、息子の一条天皇が見舞いにきます。このとき、詮子の平癒を願って、藤原伊周の罪が解かれ、本位の正三位に戻されます。

ドラマでは、詮子が伊周の復活は、自分のためではなく”一条天皇と敦康親王のため”と言っていました。この気持ちは一条天皇に届くのでしょうか。


さらに同じ16日、詮子は剃髪しました。いよいよということです。


翌17日、詮子ママは三条第(行成)邸に移り、22日に崩御します。


詮子ママを亡くしたときも、詮子ママの葬送が終わったと行成が報告してきたときも、一条天皇は詮子ママについてなんらのコメントも残しませんでした

詮子と一条天皇の親子関係とは、いったいどういうものだったのでしょうか。。。



解説:実際の藤原詮子

一般的には「せんし」と呼ばれることが多いです。道長の姉です。円融天皇の女御です。父は太政大臣藤原兼家で、母は藤原中正の娘の贈正一位時姫です。


円融天皇の女御となったときには、すでに関白藤原頼忠の女遵子が女御にいましたが、天皇の心は詮子にあったといいます。


しかし、懐仁親王(後の一条天皇)を実家の東三条殿で産んだあとは、詮子は里帰りした東三条殿に残って懐仁親王を育てるので、円融天皇とは別居状態となります。

そのせいか、2年後には遵子が皇后となったため、詮子の父兼家は焦り、参内することもまれになりました。


982年の12月の懐仁親王着袴の日に詮子は参内しましたが3日で退出しました。このように、円融天皇と詮子・兼家親子との関係は安定していませんでした。

てか、円融天皇は長男を生んでいない遵子を中宮にするという、ありえないことまでしました。

ただ、結局円融天皇は次の天皇(花山)が即位した後は、必ず詮子が産んだ皇子懐仁を東宮にすると兼家に約束して、譲位しました。


中宮となった定子が内裏に参入して登華殿を御所とすると(なお、定子は清涼殿の上御局で寝起きしてた)、詮子は10月25日に内裏から職曹司に移り、12月3日には東三条殿に移りました。ドラマだと、道隆が内裏から追い出したという展開でした。


991年に夫の円融上皇が崩じると、詮子は出家して、さらに史上初の女院となりました。


30歳にして出家して、日本史上初めて女院号(東三条院)を授けられました。「東三条院」の称号は、父兼家の邸である東三条第が詮子に伝領されたことによります。

なお、このころの詮子は、円融上皇の病状が悪化したときに内裏に登ってきていたのですが(正確には内裏に登ったのち職曹司に住んでいた)、11月に道長の妻の源倫子邸である土御門殿に移りました。


藤原氏北家、特に九条家流の発展は詮子の力によるところが大きいです。

中関白家の関白道隆が死去したとき、詮子姉さんは道兼を摂関に推しました(「女院(詮子)の御心掟も、粟田殿(道兼)知らせたまふべき」(『栄花物語』巻四))。

さらに、道兼が疫病ですぐに死んだときも、詮子姉さんは一条天皇の寝室に凸って、涙ながらに道長を内覧に推しました(「夜の御殿に入らせたまひて、泣く泣く申させたま」(『大鏡』道長))。



996年の長徳の変のときには、伊周が詮子を呪詛していたことが発覚しました。

996年、定子の第一子・脩子内親王の五十日の儀は、祖母の女院である詮子が行った。

997年、3月ごろより病を患う。このため、伊周と隆家は赦免される。

998年、道長の妻の源倫子を、土御門殿と二条第を提供したことにより従三位に叙すようにと、一条天皇に奏上した。

中宮定子が敦康親王を出産したとき、天皇の認知を象徴する御剣を詮子が用意して、すぐに贈った。詮子は敦康親王の誕生を喜んだようです。


以前から定期的に病となっていた詮子は、比較的短命な40歳で亡くなりました。1001年のことでした。最後に薬を拒絶したエピソードも史料に残っています。


年表

では、藤原詮子の略年表を示します。年齢は数え年です。


962年:1歳。誕生。

978年:17歳。8月、円融天皇に入内→11月、女御。

981年:20歳。従四位下。

   6月、兼家邸、東三条第において懐仁親王(一条天皇)を生む。

982年:21歳。円融天皇が花山天皇に譲位。懐仁親王が東宮に。

986年:25歳。正月、正三位

   6月、一条天皇践祚→7月、皇太后となる。

989年:28歳。6月24日、危篤となるも一命を取り留める。

990年:29歳。7月2日、お父さん兼家死去。

991年:30歳。2月、円融上皇崩御。

      9月、出家。太上天皇に準じて院号をさずけられ東三条院と称せられた。

1001年:40歳。閏12月22日、崩御(院別当藤原行成第にて)。四十歳。鳥辺野に葬送された。



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