歴史部通信:5月16日号
- 順大 古川
- 2 日前
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更新日:20 時間前
【次週(5月18日~21日)の予定:日本史】
月:「月曜日_05.武家社会の成長」琉球と蝦夷ヶ島~
火:「火曜日_10.2つの世界大戦とアジア」二十一箇条の要求と中国側の反発~
水:「水曜日_09.近代国家の発展」倒幕運動の展開~
木:「木曜日_02.律令国家の形成」地方官衙と「辺境」~
※次のお休みは、6月22日(月)~6月25日(木)です※
【質問調査結果】
Q:昭和期陸軍の一夕会と桜会と皇道派の関係は?
『国史大辞典』の「一夕会」「桜会」「皇道派」「統制派」の記事より、時系列で整理しました。一夕会の話は【一】、桜会の話は【桜】、皇道派の話は【皇】、統制派の話は【統】です。
【一】1921(大正10)年、一夕会の起源。陸士第16期生三少佐がドイツで密約。
永田鉄山(少佐)
小畑敏四郎(少佐)
岡村寧次(少佐)
【一】?年、二葉会(同人会とも)を組織。陸士15~18期生約20人。
【一】1929(昭和4)年、一夕会を発会。15~25期生の主として陸軍大学校を卒業したエリート幕僚の約40人。
目的は「荒木・真崎・林三将の擁立」とあるが、この三人は一夕会のメンバーなの?→違う。三人は永田たちよりも全然偉い人。1929年時点で、荒木貞夫も真崎甚三郎も林銑十郎も中将です。
【桜】1930(昭和5)年10月、桜会結成。橋本欣五郎(中佐)が発案し、橋本(中佐)・坂田義朗(中佐)・樋口季一郎(中佐)の三人が発起人。会員は急増して、翌年までに百名前後となった。
橋本は陸軍大学校32期生なので、一夕会メンバーよりも、一回りぐらい下の世代のグループです。階級も永田(1927年に大佐、1931年に少将)よりも下で、1930年8月に中佐になったばかりです。
橋本自身の回想によると、年上の人たちは動きが鈍いので若い者たちで桜会をつくった、とのことです(『目撃者が語る昭和史 第2巻』)。
【桜】1931(昭和6)年、三月事件。宇垣一成政権樹立計画。
【桜】1931(昭和6)年7月、長勇少佐を首領にして、小桜会結成。隊員を青年将校に拡大。
【一】1931(昭和6)年満州事変前後、一夕会自然消滅。
【桜】1931(昭和6)年、十月事件。橋本以下の指導者が左遷。→桜会自然消滅。
【皇】1931(昭和6)年12月、犬養内閣に荒木貞夫中将が入閣したときが転機。佐々木隆によると皇道派の「成立」、秦郁彦によると「急進」。これ以前の皇道派は?→主流派の宇垣派に対する、荒木・真崎派がのちの皇道派の母体のようです。
真崎甚三郎参謀次長
柳川平助陸軍次官
山岡重厚軍務局長
秦真次憲兵司令官
小畑敏四郎大佐
鈴木率道
【統】皇道派の内部で路線対立が起こる。統制派の原型ができていく。
皇道派の路線に反対してきたのは、
永田鉄山
東条英機
工藤義雄
武藤章
影佐禎昭
池田純久
片倉衷
真田穣一郎
辻政信
【皇】1933(昭和8)年秋、中心が荒木から真崎へ移行。
【皇】1934(昭和9)年1月、陸相に就任した林銑十郎が、皇道派から統制派に転向していく。
【統】1934(昭和9)年3月、永田が軍務局長に起用されたことから、統制派が成長。
【皇・統】1934(昭和9)年8月、非皇道派系中堅幕僚(橋本虎之助・今井清・古荘幹郎ら)が要職に起用された。
【統】1934(昭和9)年10月、皇道派の批判を含む『国防の本義と其強化の提唱』(陸軍パンフレット)公表。
【皇・統】1934(昭和9)年11月、士官学校事件で、両派の対立激化。
【皇・統】1935(昭和10)年8月(7月?)、真崎教育総監更迭。統制派勝利。
【皇】1935(昭和10)年8月、皇道派の相沢三郎中佐が、統制派の永田軍務局長を刺殺。林は引責辞職。
【皇】1936(昭和11)年2月、二・二六事件。統制派系の渡辺錠太郎教育総監を殺害し、真崎内閣の樹立を要求。
反乱軍首脳→非公開軍法会議で処刑。
真崎大将→取調べを受けたが、証拠不十分で釈放。
荒木大将以下の幹部→予備役に編入
皇道派は一応潰滅→陸軍の実権は、統制派が掌握。
【統】1937(昭和12)年、宇垣内閣流産。林内閣組閣時に石原莞爾グループ敗退。
【統】?(昭和?)年、板垣征四郎・畑俊六陸相時代には、日中和平などを廻り統制派と非統制派系の抗争が続く。
【統】1940(昭和15)年、東條英機、陸相就任。東條のもとで、統制派は圧倒的優位の確立。
武藤
佐藤賢了
田中新一
大枠をまとめると、1920年代の後半に陸軍主流の宇垣派に対して、皇道派的な(急進的な)考えを持つ人が荒木・真崎を中心に集まり始めていました。この辺が、上層に近いところの動きです。
そんで、もう少し中堅の永田あたりが、皇道派的な考えを持つグループの一夕会を結成。
さらに、それでも手ぬるいと考えるさらに若くて血気盛んな橋本たちが桜会を結成。
これらの比較的若いグループは満州事変までに、壊滅・自滅。
要するに、一夕会も桜会も、考え方は基本的に皇道派でした。
んで、1931年に、荒木・真崎を中心に皇道派的な考えをもつ、いわゆる「皇道派」がはっきりと姿をあらわします。
なお、永田・林は、偉くなるにしたがって現実を理解し、統制派となっていくようです。



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