【歴史部日記】2026年4月3週まとめ
- 順大 古川
- 4月15日
- 読了時間: 20分
更新日:4月17日
【目次】
歴史部(2026/04/13)のサマリー(ZoomAI)
主なポイント
室町時代の日明貿易について、勘合貿易の仕組みと歴史的背景を学習
足利義満が日本国王の称号を得て明との貿易を開始したが、暦は使用しなかった
僧侶と博多商人が貿易の実務を担当した理由について議論
倭寇の活動と日明貿易の関係性について確認
次回は日朝貿易と琉球の話題を扱う予定
議論されたトピック
日明貿易の開始と背景
東アジアとの貿易の歴史的経緯について、鎌倉時代から室町時代への流れを確認。
詳細
I: 元と日本の間には正式な外交関係がない時期でも商船の往来があり、鎌倉幕府は1325年に建長寺船を派遣した
K: 14世紀後半、日本は南北朝の騒乱期にあり、海上でも秩序が揺らいだ
S: 1368年に明が建国され、海禁政策を取りながら周辺国に朝貢を求めた
結論
明は朝貢と冊封を軸とする秩序を再建し、周辺国との関係を整えた
日本も足利義満の時代にこの体制に組み込まれることになった
足利義満による勘合貿易の開始
足利義満が1402年に明との国交を開いた経緯について議論。
詳細
K: 義満は1402年に明に使節を派遣して国交を開き、僧侶の祖阿と商人の肥富が通商を始動した
O: 義満は明皇帝から日本国王源道義の称号を得て、暦も与えられた
K: 勘合貿易は勘合符という割符を用いて正式な貿易船を証明する仕組みだった
結論
義満が国王号を求めた理由は、貿易利益の確保だけでなく、明皇帝の権威を背景に国内での地位を高めることにあった
勘合を用いることで、正式な貿易と倭寇を区別した
勘合貿易の中断と再開
四代将軍足利義持による貿易中断とその後の再開について。
詳細
M: 勘合貿易は1411年から始まったが、四代将軍足利義持が朝貢形式に反対して中断した
K: なぜ一度途切れたのかという質問に対し、のぶた先生が義持の朝貢形式への反対を説明
M: 五代将軍の立場について質問
結論
義持は父義満の路線を嫌い、朝貢形式に反対して貿易を中断した
六代将軍足利義教の時代に再開され、以後も継続された
五代将軍義量は若くして死去したため、独自の方針を示すことができなかった
貿易の頻度と規模
勘合貿易がどの程度の頻度で行われていたかについて。
詳細
O: 勘合を持つ船がどのくらいの頻度で日本と明を行き来していたか質問
のぶた先生: 150年間で19回程度、約5年から10年に一回の頻度だったと説明
結論
勘合貿易は比較的低頻度で行われていた
琉球の貿易と比較すると、琉球の方がより頻繁に貿易を行っていた
暦の授受と使用
明から暦を与えられたことの意味について深い議論が展開。
詳細
O: 与えられた暦が元々使っていたものと違うのか質問
のぶた先生: 暦を与えられることは支配関係の象徴であり、年号を使うことは誰の支配下にあるかを示すと説明
うえまつ先生: 暦を使わないことは中国皇帝の支配を認めていないことを意味すると補足
結論
日本は明から暦を受け取ったが使用しなかった
これは極めて特異な事例であり、実質的に明の支配を受け入れていないことを示す
年号の使用は支配関係を示す重要な要素である
僧侶と商人が貿易を担当した理由
なぜ幕府の武士ではなく僧侶と博多商人が貿易を担当したのかについて。
詳細
O: なぜ武士ではなく僧侶や商人を使ったのか質問
のぶた先生: 幕府側には外交のノウハウがなく、遣唐使以来約600年ぶりの国交だったと説明
のぶた先生: 禅僧は中国語が堪能で、手紙の知識もあり、ニュートラルな第三者として仲介できる立場だったと説明
のぶた先生: 博多商人は船と貿易のノウハウ、航路の知識を持っていたと説明
結論
幕府の武士には外交や貿易のノウハウがなかった
僧侶は言語能力と外交知識を持ち、ニュートラルな立場で仲介できた
商人は航海と貿易の実務的なノウハウを持っていた
この三者の協力体制が勘合貿易を可能にした
倭寇の武装と活動
倭寇の装備や活動について。
詳細
S: 倭寇の武装は明や日本の正規軍とあまり変わらなかったのか質問
のぶた先生: 倭寇図巻という絵画資料を示しながら、後期倭寇は9割以上が中国人だったと説明
のぶた先生: 武器は基本的に弓と刀剣で、質の違いはあるが種類自体は正規軍と大きく変わらないと説明
結論
後期倭寇は実質的に中国人が主体だった
武装は正規軍と種類は似ているが、質の面で差があった
倭寇という名称自体が実態と合わない可能性がある
太宰府と日本国王の関係
太宰府を押さえることと日本国王として認められることの関係について。
詳細
I: 懐良親王が日本国王として認められたのは、太宰府を押さえていたからかと質問
のぶた先生: 太宰府を押さえることが必ずしも日本国王として認められる理由にはならないと説明
のぶた先生: 懐良親王は天皇の子供である親王という血統があったことが重要だと指摘
結論
地理的な要因だけでは日本国王として認められるわけではない
血統や実際の支配力など複合的な要因が関係する
事例が少ないため一般化は難しい
建長寺船と天龍寺船
寺院建立のための貿易船派遣について。
詳細
K: なぜ建長寺と天龍寺を幕府のお金で建てようとしたのか質問
のぶた先生: 寺院は朝廷だけでなく、貴族や幕府も建てることができると説明
うえまつ先生: 具体的にどのように利益を得たのか質問
のぶた先生: 商人に委託して物を持って行き、物を持って帰る形で利益を得たと説明
結論
幕府が寺院を建立すること自体は珍しくない
特徴的なのは、その資金を貿易で調達したこと
商人に委託して貿易を行い、利益を得る仕組みだった
足利尊氏と足利直義の二頭体制
室町幕府初期の統治体制について。
詳細
I: 尊氏と直義の二頭体制で、なぜ天龍寺船派遣が連名なのか質問
のぶた先生: 足利家全体の事業として、両者が協力する形を取ったと説明
うえまつ先生: 主従制的支配権と統治権的支配権という独特な二頭体制が運営されていたと補足
結論
尊氏と直義は役割分担をしていたが、足利家全体の事業では協力した
天龍寺建立は幕府の支配機構外の事業として位置づけられる
この時期の統治システムは特徴的で、高校レベルでは理解が難しい
勘合符の偽造対策
勘合符の複製対策について。
詳細
Y: 勘合符が複製されることへの対策はあったのか質問
のぶた先生: 割符形式で、文字、墨、紙、印鑑すべてが国家レベルでないと作れない最高級品を使用したと説明
のぶた先生: 明側が持つ半分の文章を日本側は知らない可能性があり、それも偽造対策になったと推測
結論
勘合符は割符形式で、高度な技術と材料を用いて偽造を防いだ
文字、紙、印鑑などすべてが国家レベルの最高級品だった
現代の紙幣と同様、高コストと高技術で偽造を困難にした
歴史部(2026/04/14)のサマリー(ZoomAI)
主なポイント
大正政変期の政治状況と山本権兵衛内閣の成立について学習
ジーメンス事件による山本内閣の退陣と第二次大隈重信内閣の成立
立憲同志会の結成と政党政治の伸長
元老制度の仕組みと歴史的背景
列強の定義とウィーン会議からの歴史的経緯
議論されたトピック
大正政変と立憲同志会の成立
桂太郎内閣崩壊後の政治状況と立憲同志会の結成について議論。
詳細
S: 立憲同志会は桂が残した政党で、後に憲政会、立憲民政党へと成長
S: 加藤高明が総裁で、若槻礼次郎や山本達雄など新進官僚も参加
F: 軍部大臣現役武官制を改正し、予備役・後備役の大将・中将も陸海軍大臣になれるように変更
結論
第一次護憲運動の成果として制度改革が実現
政党政治の伸長とその限界が同時に示された
ジーメンス事件と山本内閣の退陣
1914年に発覚した海軍の汚職事件について詳細な議論が行われた。
詳細
K: 軍艦購入をめぐり海軍軍人とドイツのジーメンス社の汚職が発覚
M: 事件により山本内閣が退陣
のぶた先生: 無線電信装置の納入に関する汚職で、すでに決定していた契約からの紹介料が問題となった
うえまつ先生: ジーメンスはドイツの電気メーカーで、海軍の無線電信装置を納入
のぶた先生: 三井物産が代理店として関与し、松本和中将への賄賂が発覚
結論
軍備拡張下での財閥と軍部の癒着が明らかになった
検察の捜査にもかかわらず、トップの山本権兵衛や斉藤実には追及が及ばなかった
第二次大隈重信内閣の成立理由
大隈重信が首相に起用された背景について質問と議論が展開された。
詳細
A: なぜ大隈重信の登場が反閥感情を抑える効果になったのか質問
のぶた先生: 大隈は政党を作り政党内閣を組織した経験があり、政党側の人間として国民の人気が高かった
のぶた先生: 76歳の引退したおじいちゃん的存在で、山形や井上と同世代
のぶた先生: 陸軍の桂、海軍の山本が潰れた後、元老たちが苦し紛れに連れてきた人物
結論
大隈は政党寄りで人気のある元老世代の政治家として選ばれた
反閥感情を抑え、立憲政友会に打撃を与える狙いがあった
山本権兵衛が首相になった経緯
海軍出身の山本権兵衛が首相に就任した理由について議論。
詳細
S: 海軍出身の山本がなぜ政党を与党として首相になれたのか質問
のぶた先生: 西園寺の後、第三次桂内閣前に山本にも打診があったが断った経緯
のぶた先生: 桂よりも西園寺に近く、立憲政友会とも仲が良かった
のぶた先生: 長州陸軍系の桂が潰れた後、海軍閥か政党勢力からの選択となった
うえまつ先生: 薩摩と海軍と政友会の連合により、山形らの長州閥と陸軍の連合に対抗
結論
陸軍閥とは別の閥から選ばれた、ある意味での政権交代
元軍人が首相になることは軍事を知り、軍部を抑えられるメリットがある
元老制度の仕組みと歴史
元老制度の成立と運用について詳細な質問と議論が行われた。
詳細
M: 元老制度はいつ頃まであったのか質問
のぶた先生: 憲法には規定されていない慣習で、1898年頃に確立
のぶた先生: 元総理大臣を中心とした政界の大物が次の総理大臣を決めるシステム
のぶた先生: 一人減り二人減りで最後は西園寺公望が最後の元老となった
うえまつ先生: 補充された元老と補充されなかった元老の違いについて質問
のぶた先生: 桂太郎は当初から元老ではなく、
明石: 清浦圭吾は1942年まで生きたが元老にはならなかった
結論
元老制度は日清戦争前後に確立した慣習
明確な基準はなく、慣習として運用された
西園寺公望が最後の元老として1940年まで存命
同盟と協商の違い
国際関係における同盟と協商の概念について質問があった。
詳細
S: 同盟と協商の違いについて質問
のぶた先生: 同盟は軍事同盟を指し、協商はより緩やかな協力関係
うえまつ先生: 協商はフランス語で「理解する」という意味で、お互いの勢力圏を認め合う関係
うえまつ先生: 英仏協商では、エジプトをイギリスの勢力圏、モロッコをフランスの勢力圏として相互に認めた
のぶた先生: 日露協約を結んで日露協商という関係になった
結論
同盟は基本的に軍事同盟で、協商は勢力圏を相互に認め合う緩やかな関係
条約としては協約を結び、二国間関係としては協商という表現を使う
列強の定義と歴史的起源
列強という概念の定義と歴史について質問と議論が展開された。
詳細
K: 列強の定義について質問
のぶた先生: 英語ではthe Great Powersで、定義は明確ではない
のぶた先生: AIによるとウィーン会議の五カ国同盟がスタート
うえまつ先生: ウィーン会議の五カ国同盟(オーストリア、プロイセン、ロシア、イギリス、フランス)が列強と総称された
うえまつ先生: 19世紀にヨーロッパがアジア・アフリカに進出し、ヨーロッパ中心の世界が形成された背景
結論
列強の起源は1814年のウィーン会議の五カ国同盟
19世紀のヨーロッパ中心の世界秩序の中で、ヨーロッパのトップ五カ国が世界の列強として認識された
予備役と後備役の期間
兵役制度における予備役と後備役の具体的な期間について質問があった。
詳細
A: 予備役から後備役になる具体的な期間について質問
のぶた先生: 法律や身分によって異なる
のぶた先生: 明治22年時点では、現役三年後、予備役が陸軍四年・海軍三年、後備役が五年間
のぶた先生: 昭和になるとさらに五年延びる
結論
予備役は三、四年、後備役は五年程度のイメージ
時代や法律改正により期間は変動した
歴史部(2026/04/15)のサマリー(ZoomAI)
主なポイント
幕末の公武合体論と尊王攘夷運動について、和宮降嫁から文久の改革、長州藩外国船砲撃事件までの範囲を学習
参勤交代制度の緩和、西洋式軍制の導入、各藩の対応など、細かい歴史的事実の確認が必要
Tが体験参加し、歴史部の学習方式を体験
議論されたトピック
水戸藩に対する処罰
桜田門外の変と坂下門外の変の後、水戸藩がどのような処罰を受けたかについての質問
詳細
S: 水戸藩の脱藩者が二度も幕府要人を襲撃したが、水戸藩自体に制裁はあったのか
うえまつ先生: 井伊直弼の時代に水戸藩主が禁固処分になったことを指摘
のぶた先生: 詳細な資料が手元になく、後日調べて回答することに
S: 脱藩した水戸藩士がテロ行為を行ったため、水戸藩が罰せられたとの情報を共有
結論
詳細は後日調査して回答予定
西洋式軍制と従来の幕府軍の違い
文久の改革で導入された西洋式陸軍と従来の幕府軍の違いについて
詳細
S: 西洋式陸軍と従来の幕府軍の違いは何か
のぶた先生: 基本装備や編成が異なるが、手元に詳細資料がなく即答できず
うえまつ先生: 山川出版社の教科書に長募制銃隊という新編成が記載されていることを紹介
K: 徴募制銃隊の情報を提供
結論
詳細は後日調査して回答予定
天誅組と生野の変における大和国襲撃の理由
尊攘派が大和国の代官所を襲撃した理由について
詳細
K: なぜ大和国の代官所を襲撃したのか
のぶた先生: 天皇を大和国に行幸させ、幕府の支配が及ばない天皇の領地を作ろうとする計画と連動していた。奈良に朝廷側の土地を作り、倒幕の誓いを神に誓わせようとした
結論
幕府の支配が及ばない天皇の領域を奈良に作ることを目指した運動だった
寺田屋事件後の薩摩藩の上洛
薩摩藩が藩内の尊攘派を一掃した後、なぜ上洛する余力があったのか
詳細
O: 寺田屋事件で尊攘派を一掃した後に藩兵を率いて上洛する余力があった理由
のぶた先生: 薩摩藩の藩政改革が成功し経済力と軍備が整っていた。朝廷とのパイプがあり勅使を出させることに成功。寺田屋事件自体は十人規模の小規模な事件。幕府の権威が弱体化していたタイミングで大義名分を得て上洛した
結論
薩摩藩の経済力・軍事力、朝廷とのパイプ、幕府の弱体化が重なり上洛が可能になった
参勤交代緩和の論理
文久の改革で参勤交代を緩和した理由について
詳細
T: 中央集権を目指すのに、なぜ参勤交代を緩和したのか。参勤交代は大名の経済力を削ぐ目的があったはず
のぶた先生: 文久の改革は幕府が望んでやったのではなく、島津久光ら外様大名が幕府に突き上げて実現させたもの。外様大名にとって有利で幕府にとっては不利な改革。どのような論理で説得したのかは後日調査が必要
結論
詳細な論理は後日調査して回答予定
対馬藩の参勤交代
文久の改革による参勤交代緩和が対馬藩にどう適用されたか
詳細
S: もともと三年に一回だった対馬藩の参勤交代は変わらなかったのか、それとも延長されたのか
のぶた先生: 国史大辞典で確認したところ、三年に一年、百日の在府で在国自由となった。三年後には旧制復旧を図ったが効果なし。対馬藩の具体的な対応は資料を調べる必要がある
結論
一般的には三年に一回に緩和されたが、対馬藩の具体的対応は後日調査予定
長州藩の公武合体派から尊攘派への転換
1862年に長州藩が公武合体派から尊攘派に転換した経緯
詳細
うえまつ先生: 長州藩が1862年に尊攘派に転換した具体的な出来事は何か
のぶた先生: 長井雅楽という公武合体派の人物が1862年6月に罷免され、後に切腹に追い込まれた。公武合体派が失脚し尊攘派が主導権を握った
結論
長井雅楽の失脚により長州藩は尊攘派に転換した
長州藩外国船砲撃事件の中国への影響
長州藩の外国船砲撃が中国に与えた影響について
詳細
S: 長州藩の外国船攻撃が中国に影響を与えたか
うえまつ先生: 1860年の第二次アヘン戦争で清朝が徹底的に敗れた直後であり、太平天国の乱も終結した時期。洋務運動が始まる時期で、日本の事件が影響したことはほぼない
のぶた先生: 朝鮮では前後十年ぐらいに外国人を追い払う動きがあった
結論
中国への直接的な影響はほぼなかった
長州藩のみが外国船を砲撃した理由
なぜ長州藩だけが外国船を砲撃したのか
詳細
W: 長州藩だけが攘夷を実行し、他の藩が実行しなかった理由
のぶた先生: 外国船が通る可能性がある藩は限られていた。下関以外では横浜、函館、長崎が開港していたが、神戸はまだ開港していなかった。長州藩が先に実行した情報が流れると、他藩は様子見になった
S: 土佐藩では尊攘派の人々が反対した
うえまつ先生: 下関が舞台なので、対岸の福岡藩や小倉藩の対応も気になる
結論
地理的条件と情報伝達のタイミングが影響。土佐藩と小倉藩の対応は後日調査予定
ペンブローク号の航路
アメリカ商船ペンブローク号がなぜ関門海峡を通過したのか
詳細
K: ペンブローク号が長崎から上海に向かうのに、なぜ関門海峡を通ったのか。大阪経由で瀬戸内海を通る方が安全ではないか
のぶた先生: 当時、神戸・兵庫はまだ開港していなかった。開港していたのは函館、横浜、長崎のみ。なぜ関門海峡を通ったのかは詳しい資料で調べる必要がある
結論
詳細は後日調査して回答予定
歴史部(2026/04/16)のサマリー(ZoomAI)
主なポイント
遣唐使の航路変更について、朝鮮半島沿岸の北路から東シナ海横断の南路へ変更された背景と危険性を確認
新羅と日本の外交関係の変化について、7世紀から8世紀にかけての力関係の推移を議論
渤海と日本の親密な関係、および新羅との三国間のバランスについて検討
阿倍仲麻呂の唐での活躍と具体的な役職について詳細に確認
鴻臚館の役割と位置づけについて、迎賓館としての機能を理解
議論されたトピック
遣唐使の航路変更の理由
新羅との関係悪化により、安全な北路から危険な南路へ航路を変更した背景について議論が行われた。
詳細
F:航路が北路から南路に変更されたことを確認
のぶた先生:新羅との関係悪化が主な理由であることを説明
I:南東路という第三の航路があったのではないかと質問
のぶた先生:南東路は正規ルートではなく、漂流によるものである可能性が高いと回答
結論
白村江の戦い後、新羅との関係が悪化したため、朝鮮半島沿岸を通る北路が使用できなくなった
南路は危険だが、東シナ海を横断する必要があった
往路で3割、往復で約半分が遭難する危険な航路であった
新羅と日本の外交関係の変遷
7世紀から8世紀にかけての新羅と日本の関係変化について詳しく議論された。
詳細
I:新羅が従属を拒否したのに渤海が受け入れた理由を質問
のぶた先生:7世紀に新羅は唐と国境を接することになり、日本との関係を重視する必要があったと説明
のぶた先生:8世紀に入り唐との関係が安定すると、新羅は日本に対して対等な態度を取るようになった
I:日本と渤海に挟まれた新羅の立場について質問
のぶた先生:新羅、渤海、日本の三国間の力関係については詳細が不明であると回答
結論
7世紀後半、新羅は唐との対立のため日本に対して低姿勢を取った
8世紀に入り唐との関係が改善すると、新羅は日本に対して対等な態度を取るようになった
8世紀後半には日本と新羅の公式な関係はほぼ断絶状態となった
阿倍仲麻呂の唐での役職と活躍
阿倍仲麻呂が唐の朝廷でどのような仕事をしていたかについて詳細な議論が行われた。
詳細
F:阿倍仲麻呂が朝廷に徴用されて具体的に何をしていたか質問
のぶた先生:鎮南都護(正しくは鎮南都護と安南都護)に任命されたことを説明
うえまつ先生:安南都護府は現在のベトナム・ハノイにあり、唐の南方統治の重要拠点であったと補足
うえまつ先生:玄宗の子である儀王の王友という側近的な役職にも就いていたことを追加説明
うえまつ先生:外国人である阿倍仲麻呂がこのような重要な役職に就いたことは非常に珍しいと指摘
結論
阿倍仲麻呂は唐の南方統治の重要拠点である安南都護府の長官を務めた
玄宗の子の側近という重要な役職にも就いており、玄宗から高い信頼を得ていた
安史の乱後も失脚せず、唐の官僚としてのキャリアを続けた
鴻臚館の役割と機能
鴻臚館が外交拠点としてどのような役割を果たしていたかについて議論された。
詳細
j:鴻臚館以外に外交拠点があったのか質問
のぶた先生:鴻臚館は一つではなく、複数の場所に存在したと説明
のぶた先生:福岡の鴻臚館は海に近い高台にあり、現在の福岡ドーム建設時に発見されたと説明
のぶた先生:能登には客館があり、渤海使はそこに来るよう指示されたと補足
うえまつ先生:鴻臚館は現代の迎賓館に相当する施設であると整理
結論
鴻臚館は迎賓館としての機能を持つ施設であった
複数の場所に存在し、主に海に近い場所に設置されていた
外務省のような機能ではなく、外国使節の接待施設であった
遣唐使の人数と船の数
約500人が4隻の船に分乗して渡航した理由について議論された。
詳細
K:危険な航路なのになぜ大人数で一度に渡航したのか質問
のぶた先生:20年に一度しか機会がないため、多くの人を送りたかったと説明
のぶた先生:4隻に分乗することでリスクを分散していたと説明
のぶた先生:造船技術が未熟だったというより、乗せすぎが原因ではないかという説もあると補足
M:客死した人はどのくらいいたのか質問
のぶた先生:唐に渡って現地で死んだ人は歴史に名を残す人物では非常に少なかったと回答
結論
20年に一度の機会のため、できるだけ多くの人を送る必要があった
4隻に分乗することでリスクを分散していた
往路で3割、往復で約半分が遭難する危険な航路であった
遣唐使を拒否した人物
危険な遣唐使への派遣を拒否した人物について議論された。
詳細
H:遣唐使に行きたくないという人はいなかったのか質問
のぶた先生:菅原道真や小野篁など、拒否した人物は複数いたと回答
のぶた先生:小野篁は拒否したことで隠岐に流されるという罰を受けたと説明
j:小野篁は地獄を行き来した人物としても知られていると補足
結論
遣唐使への派遣を拒否した人物は複数存在した
拒否した場合は左遷や流罪などの罰を受けることがあった
海上では身分に関係なく平等に危険があったため、誰もが恐れていた
藤原仲麻呂の新羅征討計画
藤原仲麻呂が計画した新羅征討が実現しなかった理由について議論された。
詳細
I:藤原仲麻呂の新羅征討計画がなぜ実現しなかったのか質問
のぶた先生:藤原仲麻呂が恵美押勝の乱で失脚したためと説明
I:他に新羅征討を計画した人物はいなかったのか質問
のぶた先生:日本全体で2年かけて準備していたが、積極的に賛成していた人は少なかったと回答
うえまつ先生:征討計画を潰すために仲麻呂を失脚させたのではなく、国内政局の中で失脚したと確認
I:渤海と組んで新羅と戦おうとしていたのか質問
のぶた先生:資料の限りでは渤海と組む計画はなかったと回答
結論
藤原仲麻呂の失脚により新羅征討計画は実現しなかった
失脚の理由は孝謙上皇の崩御による後ろ盾の喪失であり、征討計画への反対ではなかった
渤海と組んで新羅と戦う計画はなかった
日本と新羅の関係悪化と断交
8世紀における日本と新羅の関係悪化について議論された。
詳細
j:渤海との親密な関係と新羅との関係について質問
のぶた先生:日本と唐、日本と渤海は親密だが、日本と新羅は仲が良くなかったと説明
のぶた先生:8世紀後半には新羅からの使節が来なくなり、ほぼ断交状態になったと説明
うえまつ先生:安史の乱などの中国側の情勢が日本と新羅の関係に影響したか質問
のぶた先生:軍団兵士制度の停止時期と関連しており、対外戦争の可能性がなくなったことが影響したと回答
結論
8世紀後半には日本と新羅はほぼ断交状態となった
貿易関係は続いていたが、公式な外交関係は途絶えた
安史の乱後の情勢変化も日本の対外政策に影響を与えた




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