【歴史部日記】2025年10月4週まとめ
- 順大 古川
- 10月28日
- 読了時間: 18分
更新日:10月31日
【目次】
歴史部(2025/10/27)のサマリー
主なポイント
承久の乱について、鎌倉幕府の迅速な対応と戦略的判断が勝利の鍵となった
新補地頭と本補地頭の違い、および新恩給与の仕組みについて確認
西面の武士は上皇の警護を担当する組織であり、権力を持つ存在ではなくガードマン的な役割
山野河海の収益配分に関する荘園制度の詳細を確認
上皇が複数存在する日本の政治構造の特殊性について議論
議論されたトピック
承久の乱の戦略と経過
承久の乱における鎌倉幕府の戦略的判断と、一ヶ月という短期間で決着がついた理由について詳しく議論された。
詳細
のぶた先生:箱根で守りを固めるか、先制攻撃をかけるかの二つの選択肢があった。大江広元が長期戦は不利と判断し、速攻を主張した
のぶた先生:上皇側には大義名分があり、時間が経つほど上皇側の味方が増える可能性があったため、北条泰時が迅速に攻め込んだ
O:結果的に一ヶ月で決着がついたことについて質問
のぶた先生:出鼻をくじかれた上皇側は主要な戦いで敗北を続け、短期決戦となった
結論
鎌倉幕府の速攻戦略が功を奏し、一ヶ月という短期間で勝利を収めた
戦略判断の重要性と、結果だけでなく過程にも注目する必要がある
新補地頭と本補地頭の違い
新補地頭の定義と、本補地頭との違いについて確認が行われた。
詳細
のぶた先生:新補地頭は承久の乱後に新たに任命された地頭で、「新補」は「新たに任命された」という意味
のぶた先生:本補地頭は元々地頭だった者を指すが、最近の教科書には載らなくなっている
のぶた先生:新補地頭は昔からの慣習がなく、比較的良い条件だったため、本補地頭が同等の待遇を求めるようになった
結論
新補地頭は承久の乱後の新しい制度で、従来の本補地頭とは条件が異なっていた
この違いが後の地頭による荘園侵略につながっていく
山野河海の収益と荘園制度
山野河海という用語の意味と、荘園における収益配分について詳しく議論された。
詳細
K:98ページの山野河海の収益について質問
のぶた先生:山野河海は田畑以外の雑多な収益を指し、山で採れる果物や川で採れる魚なども含まれる
I:養老律令の雑物条に関する資料を提示
のぶた先生:12世紀に荘園が領域的になり、山や川も含めて荘園領主の所有となった
のぶた先生:無主地だった山野河海が、荘園制度の発展により特定の領主の支配下に入った
結論
山野河海は山、野原、川、海から得られる収益の総称
荘園制度の発展により、これらも荘園領主と地頭で折半されるようになった
西面の武士の役割と権力
西面の武士の性質と、その権力の有無について議論が行われた。
詳細
I:西面の武士が清水寺と延暦寺の争いを仲裁する際、権力的に弱いのではないかと質問
のぶた先生:西面の武士は上皇の警護を担当するガードマンであり、権力や決定権は持たない
のぶた先生:西面の武士は警察組織のようなもので、代わりがきく存在
のぶた先生:上皇が自らの武力を直轄で持とうとしたこと自体に意義がある
I:説明を聞いて納得した
結論
西面の武士は警護を担当する組織であり、権力を持つ存在ではない
上皇が独自の武力組織を持つこと自体が歴史的に重要な意味を持つ
上皇の存在と日本の政治構造
複数の上皇が存在する日本の政治構造の特殊性について議論された。
詳細
I:上皇が複数いることについて質問
のぶた先生:天皇は15歳で即位し、30歳頃で譲位するのが理想モデルで、そのため複数の上皇が存在する
のぶた先生:上皇の中の一人が治天の君として天皇家の家長となり、政治を司る
うえまつ先生:中国では権力者が退位すると即座に失脚するのが一般的で、日本は世界的に見て特殊
のぶた先生:日本では権力争いに負けても死なない体制が確立されており、これは民主主義にも通じる重要な特徴
結論
日本では複数の上皇が存在するのが通常で、その中の一人が治天の君として権力を握る
日本の政治構造は世界史的に見て特殊であり、権力争いの敗者が生き残れる点が特徴的
六波羅探題の設置
六波羅探題の地理的重要性について説明が行われた。
詳細
M:六波羅探題について質問
のぶた先生:六波羅は京都の東側にある地名で、東から京都を守る上で重要な場所
のぶた先生:後に六波羅探題と呼ばれる京都担当の機関がここに置かれた
結論
六波羅は京都防衛上の要所であり、鎌倉幕府の京都支配の拠点となった
新恩給与と本領安堵
鎌倉幕府の御恩と奉公の関係について確認が行われた。
詳細
T:朝廷側についた人々の所領について質問
のぶた先生:朝廷側についた荘園領主や武士の土地を没収し、それを新恩給与として御家人に与えた
のぶた先生:将軍は本領安堵で御家人の土地を保障し、新恩給与で新たな土地を与えることで、御家人の忠誠を得た
結論
承久の乱後、敵方の土地が没収され、御家人への新恩給与として分配された
御恩と奉公の関係が鎌倉幕府と御家人を結びつける基盤となった
アクションアイテム
のぶた先生
山野河海に関する原典資料を確認する
フォーラムへの資料投稿を再開する
全員
次回は98ページの執権政治の確立を学習する準備をする
歴史部(2025/10/28)のサマリー
主なポイント
明治時代の日英同盟と義和団事件について学習
義和団事件の背景と列強八カ国による鎮圧
ロシアの満州占領(事実上の占領)に関する議論
日英同盟締結の背景と意義
柴五郎中佐の活躍がイギリスの対日感情に与えた影響
次回は日露戦争を学習予定
議論されたトピック
義和団事件の発端と性質
義和団の起源と宗教的性格について議論が行われた。
詳細
F: 義和団事件は誰が始めたのかという質問を提起
うえまつ先生: 趙三多という人物が1896年に義和拳を始め、これが義和団の起源となったと説明。統一的指導機関を持たない各義和団の集合体であった
のぶた先生: 拳術を身につけ呪文を唱えれば刀槍不入の超能力を得ると信じられていたという特徴を強調
結論
義和団は趙三多を起源とする宗教性の強い反キリスト教・反帝国主義運動
統一的指導者はおらず、各地の義和団の集合体
Boxer Rebellionという英語名は、素手で戦うような姿が西洋人に強い印象を与えたことに由来
八カ国連合軍による鎮圧の正当性
列強八カ国が義和団事件を鎮圧した背景について議論された。
詳細
F: 八カ国は仲が悪かったのではないかという質問
のぶた先生: 清国が列強の公使館を守らず、逆に宣戦布告してきたため、各国の外交官の安全を守るために八カ国の利害が一致したと説明
U: 公使館を犠牲にして戦争を避ける選択肢はなかったのかと質問
のぶた先生: 公使館の安全保障は国際的な信頼関係の基礎であり、見捨てることは不可能と回答
結論
八カ国は公使館防衛という共通の利害で一致
清国が宣戦布告したことで、列強の軍事介入が正当化された
国際的な外交関係において公使館の安全保障は最優先事項
ロシアの満州占領の性質
教科書に「事実上の占領」と記載されている理由について議論された。
詳細
M: 「事実上の占領」という表現の意味について質問
のぶた先生: 八カ国で撤兵の約束をしたがロシアだけが破り、満州に駐留し続けた。正式な占領条約はなく、事実として軍隊が駐留している状態を指すと説明
うえまつ先生: 世界史の教科書では普通に「占領した」と記載されており、日本史の教科書特有の表現である可能性を指摘
のぶた先生: 山川の日本史教科書では「事実上の占領」、世界史教科書では「占領」、新書では「満州占領」と表記の違いを確認
結論
教科書や執筆者によって表現が異なる
正式な占領条約がなかったため「事実上の占領」という表現が使われた可能性
世界史では一般的に「占領」と表記される
日英同盟締結の背景
日英同盟が1902年に締結された理由について議論された。
詳細
T: 日清戦争で日本が勝ったことが日英同盟につながったのかと質問
のぶた先生: 清国がロシアの南下を止める力を失ったため、イギリスは日本を選んだと説明
うえまつ先生: 義和団事件での柴五郎中佐の活躍がロンドンタイムズで大絶賛され、イギリスで親日的なムードが高まったことも重要な要因と補足。柴五郎は陸軍中佐として北京公使館防衛で指導力を発揮し、日本の名声を高めた
のぶた先生: 柴五郎の兄は東海散士(柴四朗)という著名なジャーナリストであることを確認
結論
日清戦争での日本の勝利により、清国に代わる対ロシア牽制勢力として日本が注目された
義和団事件での柴五郎の活躍がイギリスの世論を親日的にした
1900年の義和団事件を受けて、翌1902年に日英同盟が締結された
日英同盟における「利益」の定義
条約文における「利益」という言葉の具体的内容について議論された。
詳細
M: 日英同盟で認められた「利益」とは具体的に何を指すのかと質問
のぶた先生: 原文では「special interest」と表記されており、具体的には明記されていない。基本的には商売上・経済上の利益を指すが、意図的に曖昧にされていると説明
うえまつ先生: 権益という表現を利益に改めた可能性を指摘
結論
条約では意図的に具体化せず曖昧な表現が使われた
主に経済的・商業的利益を指すと考えられる
後に日米間で利益の範囲について対立が生じることになる
日英同盟と日露協商の関係
日英同盟と日露協商が対立関係にあったかについて議論された。
詳細
のぶた先生: 最近の研究では、日英同盟か日露協商かという二択ではなく、日英同盟を結ぶことでロシアに圧力をかけつつ日露協商も進めようとしていたという見方があると紹介
結論
日英同盟と日露協商は必ずしも対立関係ではなかった
日英同盟を結びつつ、日露協商も模索していた可能性がある
外交交渉の場所
外交交渉がどこで行われるかについて議論された。
詳細
T: 日露協商の交渉はどこで行われたのかと質問
のぶた先生: 基本的に相手国か自国で行われ、第三国での仲裁は特筆される場合のみと説明
うえまつ先生: 伊藤博文は1901年にアメリカ、ヨーロッパを経由してロシアで交渉を行ったと補足
のぶた先生: 伊藤博文の年譜を確認し、12月2日から7日にロシアで交渉を行ったことを確認
結論
外交交渉は通常、相手国か自国で実施される
伊藤博文はロシアまで出向いて交渉を行った
当時の外交官は船での長距離移動を伴う激務であった
アクションアイテム
のぶた先生
次回(再来週)は日露戦争について学習する
義和団の統一的指導機関に関する情報を整理する
うえまつ先生
来週の世界史授業は第三巻62ページ「動揺する立憲君主制、第一共和制の成立」を扱う
歴史部(2025/10/29)のサマリー
主なポイント
江戸時代の北方領土(樺太)の地図表現と認識の変遷について議論
ロシアとの北方での紛争状態と実際の戦闘の有無を確認
高田屋嘉兵衛の拿捕事件の詳細を検証
信牌の意味と日露間の認識の違いを解説
異国船打払令における「二念なく」の意味を確認
フェートン号事件の経緯と影響について説明
議論されたトピック
白川藩と会津藩が蝦夷地警備に選ばれた理由
江戸幕府が文化七年に白川藩と会津藩を蝦夷地警備に命じた理由について議論が行われた。
詳細
T: なぜ白川と会津の両藩に命じたのか質問
のぶた先生: 両藩とも譜代・親藩であり、徳川を裏切らない信頼できる藩だったことを説明。ただし、譜代・親藩の中でなぜこの二藩が選ばれたかは要調査
のぶた先生: 松平定信失脚から18年経過しており、直接的な関連は薄いと指摘
結論
譜代・親藩として信頼できる藩だったことが第一の理由
具体的にこの二藩が選ばれた詳細な理由は宿題として継続調査
樺太の地図表現の変遷
江戸時代の世界地図における樺太の描かれ方について、実際の地図を確認しながら議論。
詳細
のぶた先生: 前島地図博物館や早稲田大学所蔵の地図を画面共有で紹介
のぶた先生: 1692年の地図では樺太が北海道とつながって描かれていた
のぶた先生: 1796年の地図では樺太が島として描かれているが、確定ではなかった
のぶた先生: 安政五年の地図では樺太が島と確定した後の表現
結論
江戸時代を通じて樺太の認識は変化し、当初は半島や北海道とつながっているとされていた
時代とともに測量が進み、最終的に島であることが確定した
ロシアとの実際の戦闘の有無
樺太・択捉での日露間の紛争状態について、実際の戦闘が行われたかを確認。
詳細
O: ロシアが樺太・択捉で幕府や諸大名に対抗した際、実際に戦いが行われたのか質問
のぶた先生: 文化露寇事件を調査し、砲撃や銃撃戦が実際に行われたことを確認
のぶた先生: 文化三年から四年にかけて複数回の襲撃があり、銃撃戦も発生
結論
大規模な戦闘ではないが、砲撃や銃撃戦などの武力衝突は実際に発生していた
ゴローニン事件の前に既に武力衝突があった
高田屋嘉兵衛の拿捕事件
高田屋嘉兵衛がロシアに拿捕された経緯について詳細を確認。
詳細
S: 高田屋嘉兵衛について質問
のぶた先生: 『日本幽囚記』をKindleで確認しながら説明
のぶた先生: 嘉兵衛は観世丸で干魚を積んで択捉島から函館に向かう途中、国後島ケラムイ岬沖でディアナ号に拿捕された
のぶた先生: 25人のロシア人が鉄砲を撃ちながら乱入し、10人が海に飛び込んで逃げようとしたが、与右衛門一人だけが生き残った
結論
嘉兵衛は北前船の船頭として大商人であった
文化九年八月十三日に国後島沖で拿捕された
拿捕時には激しい抵抗と混乱があった
信牌の意味と日露間の認識の違い
ロシア人に渡された信牌の意味について議論。
詳細
奥山: 信牌とは何か質問
のぶた先生: 信牌は本来、中国船に対して発行される貿易許可証であることを説明
のぶた先生: ロシア人に渡した信牌は一回限りの長崎入港許可証だった
のぶた先生: 日本側は一回限りの入港許可のつもりだったが、ロシア側は貿易許可証と認識した
結論
信牌の認識の違いがレザノフ来航時の問題の原因となった
日本とロシアの間で文書の解釈に大きな齟齬があった
異国船打払令における「二念なく」の意味
異国船打払令の文言について確認。
詳細
S: 二念打払令という呼び方について質問
のぶた先生: ウィキソースで異国船打払令の原文を確認
のぶた先生: 「無二念打払」という文言があり、「あれこれ考えず二念なく打ち払え」という意味
のぶた先生: 二念打払令と異国船打払令は同じものを指す
結論
「二念なく」とは「あれこれ考えて思い直したりせず」という意味
外国船を見たら即座に打ち払うことを命じた厳しい法令だった
異国船打払令の伝達方法
幕府の法令がどのように各藩に伝達されたかについて議論。
詳細
T: 異国船打払令はどのように各藩に伝えられたのか質問
のぶた先生: 老中が評定所で決定し、写しを作成して各大名に配布された
のぶた先生: 毛利家文書などに「異国船之儀御書付控」として1715年から1855年までの法令が記録されている
結論
法令は写しを作成して各藩に配布する形で伝達された
会津藩のイメージと特徴
会津藩が海岸警備に選ばれた背景として、会津藩の特徴について議論。
詳細
のぶた先生: 会津藩のイメージを参加者に質問
O: 強そう、白虎隊、忠誠心が高いというイメージ
O: 地元愛が強く、戊辰戦争でも最後まで戦ったイメージ
T: 新島八重の575の句のイメージ
のぶた先生: 会津藩は譜代・親藩で幕府への忠誠心が高かったことを説明
結論
会津藩は幕府への忠誠心が非常に高い藩として認識されていた
この忠誠心の高さが蝦夷地警備に選ばれた理由の一つと考えられる
フェートン号事件
イギリス船フェートン号による長崎港での事件について説明。
詳細
O: フェートン号事件について質問
のぶた先生: フェートン号はオランダ国旗を掲げて長崎港に侵入したイギリス船
のぶた先生: オランダ人と日本の役人を人質にして食料と燃料を要求
のぶた先生: 日本側は警備が手薄で対応できなかった
うえまつ先生: 長崎港内を乗り回したと補足
結論
イギリスの強引な手法を示す事件だった
日本の海防体制の不備が露呈した
この事件により、ヨーロッパ諸国の中でもイギリスの特異性が認識された
アクションアイテム
のぶた先生
白川藩と会津藩が蝦夷地警備に選ばれた具体的な理由を調査
高田屋嘉兵衛に関する須藤氏の論文で詳細を確認
歴史部(2025/10/30)のサマリー
主なポイント
古墳時代と大和政権について学習を進めた
古墳の構造、副葬品、時代区分について詳しく議論
現代技術で古墳を建設する場合のコストと期間について検討
古墳の立地条件、特に海沿いに建設された理由について考察
大和政権の権力集中と武力征服の過程について確認
議論されたトピック
古墳時代の時代区分と特徴
古墳時代の前期、中期、後期の区分と各時代の特徴について学習した。
詳細
M: 大和を中心とする近畿地方の勢力が政治連合を形成し、大和政権が成立したことを説明
T: 古墳時代を前期、中期、後期に区分し、それぞれ3世紀後半、4世紀末から5世紀、6世紀から7世紀に対応することを読み上げ
F: 前期中期には木棺や石棺、粘土槨が使用され、近畿の巨大な前方後円墳には長持型石棺が用いられたことを説明
結論
古墳時代は3つの時期に分けられ、それぞれ異なる特徴を持つ
大和政権の成立により政治的統合が進んだ
現代技術による古墳建設のコスト
Mさんからの質問をきっかけに、現代技術で古墳を建設する場合のコストと期間について議論した。
詳細
M: 今古墳を作るとしたらどのくらいかかるのかと質問
のぶた先生: 大林組の試算を紹介し、1985年時点での建設期間や労働力について説明
のぶた先生: ChatGPTを使用して土の量を4トントラックに換算し、現代技術であれば5年かからないと推定
うえまつ先生: 現代の古墳が実際に建設されていることを紹介
結論
現代技術を使えば古墳建設は比較的短期間で可能
古代は地形を利用して建設していたため、単純な計算では測れない
三角縁神獣鏡の説明
三角縁神獣鏡の名称の由来について説明があった。
詳細
のぶた先生: 鏡の縁が三角形であることから「三角」、神獣の絵があることから「神獣」という名称になったと説明
のぶた先生: 画像を共有して具体的な形状を示した
結論
三角縁神獣鏡の名称は形状と装飾に由来する
割竹形木棺の形状
Fさんからの質問で割竹形木棺の形状について説明があった。
詳細
F: 割竹形木棺がどのような形状か質問
のぶた先生: 竹を二つに割って合わせたような曲線的な形状であると説明
のぶた先生: 藤丸山古墳の画像を共有して具体的な形を示した
結論
割竹形木棺は竹を割った形状に似た曲線的な棺
律令国名の成り立ち
上野国と下野国の名称の由来について説明があった。
詳細
のぶた先生: もともと毛の国が二つに分かれて上野国と下野国になったと説明
のぶた先生: 九州の火の国が肥前と肥後に、豊の国が豊前と豊後に分かれた例を紹介
のぶた先生: 吉備の国が備前、備中、備後に分かれた例も説明
のぶた先生: 基本的に近畿に近い方が「前」や「上」となる命名規則を説明
結論
一つの国が複数に分かれる際、近畿に近い方が「前」や「上」となる命名パターンが存在
朝鮮半島との交易品
Mさんからの質問で、日本から朝鮮半島への輸出品について議論した。
詳細
M: 朝鮮半島にある日本の遺物について質問
のぶた先生: 形に残らない米や布で取引していた可能性が高いと説明
のぶた先生: 銅や鉄、金、銀は輸出できる状態ではなかったため、人間を輸出していた可能性も示唆
結論
日本から朝鮮半島への輸出品は形に残らないものが中心だった可能性が高い
確固たる証拠はないが、米、布、または人間が交易品だったと推測される
古墳の立地条件
古墳が海沿いに建設された理由について議論した。
詳細
のぶた先生: 大阪の大仙陵古墳と誉田御廟山古墳が海沿いに位置していることを地図で説明
のぶた先生: 当時は現在よりも海岸線が内陸に入っており、古墳が海から見える位置にあったと説明
T: 海沿いに古墳を作る理由について質問
うえまつ先生: 中国では山に墓を作るため、海沿いに作る発想がないと説明
うえまつ先生: ピラミッドもナイル川流域ではあるが、川沿いではないと補足
うえまつ先生: 風水の考え方も中国の墓の立地に影響していると説明
結論
日本の古墳は海から見える位置に建設され、権力を誇示する目的があった
中国やエジプトとは異なる立地の発想を持っていた
古墳の時代区分と終末期
古墳時代の時代区分と終末期について議論した。
詳細
のぶた先生: 古墳時代は前期、中期、後期に分かれ、後期は7世紀まで続くと説明
のぶた先生: 後期の後に終末期があり、天智天皇や天武天皇の時代に相当すると補足
のぶた先生: 八角墳などが終末期の特徴であると説明
結論
古墳時代の後に終末期が存在し、7世紀の天皇の時代に相当する
大和政権の権力集中過程
大和政権の権力がどのように集中していったかについて議論した。
詳細
T: 大和朝廷の支配が全国に及ぶ過程と権力集中の関係について質問
のぶた先生: 武力征服が一つの要因であり、雄略天皇が吉備地方の豪族を武力で抑えた伝承があると説明
のぶた先生: 副葬品に武器や武具が多く含まれることから、大王が戦場のリーダーシップを取る存在だったと推測
のぶた先生: 地方の大型古墳が姿を消すことも、武力的な圧倒による影響力の強化を示すと説明
結論
大和政権は武力征服により権力を集中させていった
大王は武人としての性格を持ち、戦場に立つ存在だった可能性が高い
古墳の場所の移動
前期と中期で古墳の建設場所が移動したことについて議論した。
詳細
のぶた先生: 前期の箸墓古墳は桜井市にあり、中期の大仙陵古墳や誉田御廟山古墳は堺市や羽曳野市にあると説明
のぶた先生: 山を越えて場所が移動しており、50年前は三王朝交代説や騎馬民族征服説などの議論があったと紹介
のぶた先生: 現在はそこまで考える必要はないとされていると補足
結論
古墳の建設場所は時代とともに移動した
住居と墓の場所が異なるのは自然なことであり、必ずしも王朝交代を意味しない
アクションアイテム
のぶた先生
先週予告した内容の準備を完了させる
古墳時代の終末期に関する資料を確認し、次回授業で説明する
全参加者
上巻14ページから16ページの内容を復習する
古墳の画像や地図を確認し、理解を深める




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