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歴史部通信:5月9日号

更新日:4 日前


【次週(5月11日~14日)の予定:世界史】

月:4巻150p~

火:3巻116p~

水:1巻168p~

木:


【質問調査結果】



Q:阿部正弘は、なんでそんなに若くして老中になったの?

A:25歳で老中は史上最年少。奏者番(就任年齢平均36歳なのに、20歳で就任)→寺社奉行(正弘以前では最年少)→老中(史上最年少)は、出世早い。

調べてみた本は、後藤敦『阿部正弘:挙国体制で黒船来航に立ち向かった老中』(戎光祥出版)(https://amzn.to/3QpEHuE)


前提①:福山阿部家は、当主10人のうち4人が老中となっている、有力譜代。阿部正弘は6男で側室の子だったけど、5人の兄がことごとく病もしくは早世したので、18歳で阿部家の家督を継いだ。越前松平家(松平慶永の家)と婚姻関係を結ぶ。


前提②:基本的に老中までの出世コースは、

奏者番→寺社奉行→大坂城代or京都所司代→老中


阿部正弘の祖父の正倫(まさとも)が、大坂城代or京都所司代をすっ飛ばして老中に就任した。しかし、金1万両の賄賂を用いたとか、地元の百姓を統治できていないとかの悪評が広がった。とにかく評判が悪かったので、一年で老中を辞職する羽目になった。


とはいえ、阿部正弘の父の正精(まさきよ)も、大坂城代or京都所司代をすっ飛ばして老中に就任した。


20歳で奏者番に就任した阿部正弘は出世欲が強く、出世への運動をがんばった。

22歳で、寺社奉行に就任。通例にもとづき、奏者番も兼任。

実は、奏者番に就任する半年ほど前、江戸城西の丸が焼失。そのときに、阿部家から金2万両の献金があった。このことが、正弘の出世に関係したのかもしないと参考文献で推測。


寺社奉行就任中に、大奥などの将軍家関係者がハマっていた怪しい寺とそこの僧を、将軍家に傷をつけること無く処罰するという難題(中山法華経寺一件)を解決した。これは、ときの老中水野忠邦からの依頼。同時期に、将軍家慶の御前で神社絡みの難題も解決している。これで、阿部正弘の実力に対する評判が上がった。


天保の改革が失敗したときに、水野忠邦に対して堀田正篤(まさひろ)(のちの正睦)が辞表を叩きつけたので、阿部正弘が最年少で老中に加わった。


偽使が日本の将軍に具体的に処罰されたか?

このジャンルの研究の第一人者の一人である伊藤幸司氏は、「日朝関係における偽使の時代」(『第1期 日韓歴史共同研究報告書 第2分科篇』日韓歴史共同研究委員会、2005年・1_2_1j.pdf)において、出席者の「幕府将軍の文書や国書を改竄することに対する処罰条項や法令が、当時の日本にあったのか。」という質問に対して、「処罰はあったのかということについては、処罰は全くありません。」と回答しています。



1443年の「癸亥約条」、1512年の「壬申約条」は干支で名付けられていますが、朝鮮側の呼び方ですか?これらの約定を当時の日本では何と読んでいたのですか?

両方とも朝鮮側の呼び方です。「癸亥約条の称は『海東諸国紀』(一四七一年成る)が初見」(国史大辞典)

日本では明治時代以降に1443年の「嘉吉条約」、1512年の「永正条約」とよんでいましたが、「近代国家間に締結される権利・義務の規定を想定させる〈条約〉の語を使用することは適切ではない」(世界大百科事典)ということで、今は「癸亥約条」、1512年の「壬申約条」と呼んでいます。

なお、当時の日本側の呼び方はまだ見つけていません。200年後の江戸時代ごろには「(嘉吉三年の)定」とあります。(九州国立博物館蔵 対馬宗家文書データベース(https://souke.kyuhaku.jp/view1315.html))

先行研究で見つけられたら、報告します。

概説書:購入予定

橋本雄『偽りの外交使節:室町時代の日朝関係』(吉川弘文館・2022年)から確認してみます。→該当記事なし。

佐伯弘次『対馬と海峡の中世史』(山川出版社)確認予定。

佐伯弘次編『中世の対馬 ヒト・モノ・文化の描き出す日朝交流史』(勉誠出版・2014年)

大庭康時編『島嶼と海の世界 (九州の中世 1)』(高志書院・2020年)→該当記事なし。

鶴田啓『対馬からみた日朝関係』(山川出版社)確認済→該当記事なし。

専門書:図書館利用予定

長節子『中世国境海域の倭と朝鮮』(吉川弘文館・2002年)

長節子『中世日朝関係と対馬』

橋本雄『中世日本の国際関係-東アジア通行圏の偽使問題』(吉川弘文館・2005年)

荒木和憲『中世対馬宗氏領国と朝鮮』(山川出版社・2007年)

荒木和憲『対馬宗氏の中世史』(吉川弘文館・2017年)


なお、

嘉吉条約「1443年(嘉吉3,朝鮮世宗25)に,朝鮮から対馬の宗貞盛らにあたえられた通交貿易の条件。朝鮮側では,癸亥(きがい)約条という。おもな内容は,(1)宗氏から毎年朝鮮に派遣する歳遣船(さいけんせん)の数を50に限定する,(2)宗氏から朝鮮に対して緊急に報告しなければならないことがおきたときは,歳遣船の定数外に特送船を派遣することができる,(3)朝鮮から毎年宗氏に送る歳賜米・豆はあわせて200石に限定する,の3点である。」(世界大百科事典)

永正条約「1512年(永正9・朝鮮中宗7)に対馬の宗氏らを対象にして朝鮮から与えられた通交貿易の条件。1510年(永正7)に三浦(さんぽ)の乱といわれる朝鮮の乃而浦(ないじほ),富山浦,塩浦の3港に居留していた日本人の暴動事件が起こったため,対馬と朝鮮との通交関係はいっさい断絶した。宗氏は足利将軍や大内氏にたよって朝鮮と講和の折衝を行い,1512年にようやく通交を再開できたが,そのとき朝鮮側から与えられた通交の条件が壬申約条である。(中略)内容は,(1)三浦に日本人が居留することを認めない,(2)宗氏の歳遣船は半減して25隻とする,(3)宗氏の歳賜米・豆は100石に限る,(4)特送船の渡航は許さない,(5)受職人,受図書人は再審査して数を減らす,(6)往来の港は乃而浦1港に限る,というものであった。」(世界大百科事典)

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