top of page

【歴史部日記】2025年10月3週まとめ

更新日:10月24日

【目次】

ree

歴史部(2025/10/20)のサマリー

主なポイント

第76回授業でインド、中東、アフリカの情勢について学習

第一次世界大戦後のインド独立運動の歴史を130ページから170ページまで読解

ガンディーの非暴力不服従運動と塩の行進について詳細に議論

イギリスの植民地支配の実態とローラット法の問題点を確認

インド帝国における州と藩王国の行政区分について理解を深めた


議論されたトピック


イギリスの戦後自治約束と裏切り

第一次世界大戦中、イギリスがインドに対して戦後自治を約束したが、実際には果たされなかった経緯について議論。

詳細

うえまつ先生: イギリスはインド兵を徴兵する代わりに戦後自治を約束したが、実際にはローラット法を制定して弾圧を強化した

A: 1919年にアムリットサル事件が発生し、集会に向けてイギリス軍が発砲して虐殺した

結論

イギリスの約束は守られず、むしろ弾圧が強化された

ローラット法により令状なしの逮捕や裁判なしの処罰が可能になった


ガンディーの非暴力不服従運動

ガンディーが主導した非暴力不服従運動の特徴と展開について詳しく学習。

詳細

M: 1922年に警察署襲撃事件が起きるとガンディは運動を停止した

うえまつ先生: 非暴力が暴力に打ち勝つ瞬間があり、殴られる側には確信があるが殴る側には命令しかない

結論

第一次非暴力不服従運動は1920年に開始され1922年に収束

徹底した非暴力主義が運動の特色であった


円卓会議へのガンディーの参加問題

1930年の第一回円卓会議にガンディーが参加しなかった理由について質問が出た。

詳細

O: なぜ第一回は参加を拒否して第二回は参加したのか質問

うえまつ先生: 1930年5月にガンディーが逮捕されたため、第一回には参加できなかった。拒否したのはガンディーではなく国民会議派の幹部

のぶた先生: 塩の行進との前後関係を確認

結論

第一回円卓会議時にガンディーは逮捕されており、事実上参加できなかった

1931年3月に釈放され、第二回には参加したが成果は上がらなかった

テキストの表現は正確ではない可能性がある


1922年から1927年の運動の空白期間

第一次非暴力不服従運動の収束から第二次運動開始までの期間について質問。

詳細

M: 1922年から1927年までの5年間、ガンディーたちは全然運動していなかったのか質問

うえまつ先生: ガンディーは1922年3月に逮捕され6年間の懲役刑判決を受けたが、1924年に健康上の理由で釈放された

うえまつ先生: 国民会議派内部では非暴力運動重視派と議会活動重視派に分かれた

結論

完全に運動がなくなったわけではないが、大きな動きは1929年のラホール大会まで見られなかった

ガンディーは釈放後、執筆活動などを行っていた


塩の行進のルート選定理由

1930年の塩の行進でアフマダバードからダンディ海岸までのルートが選ばれた理由について議論。

詳細

A: アフマダバードからダンディ海岸まで歩いた場所に意味があるのか質問

のぶた先生: 地図を共有してルートを確認

うえまつ先生: アフマダバード近郊にガンディーの訓練所があり、そこがスタート地点となった

うえまつ先生: ダンディは小さな漁村で、両方ともグジャラート州内にあり、地元のネットワークを築く意図があった

結論

スタート地点はガンディーの訓練所があったため

ゴール地点は貧しい漁村で塩の専売法による負担を軽くする意図があった

360キロを24日間で歩いた

州内でのネットワーク構築が目的の一つだった


ローラット法と治安維持法の比較

イギリスのローラット法と戦前日本の治安維持法の比較について議論。

詳細

うえまつ先生: ローラット法は令状なしの逮捕や裁判なしの処罰ができる悪法だが、治安維持法と比べてどうか質問

のぶた先生: 治安維持法は逮捕要件の解釈が広いが、令状なしの逮捕などの規定はなかった

結論

ローラット法の方が手続き面でより過酷だった


インドの行政区分

インド帝国における州と藩王国の関係について質問が出た。

詳細

のぶた先生: 州議会選挙と藩王国の関係がよくわからないと質問

うえまつ先生: インド帝国はイギリス直轄地域と藩王国に分かれており、藩王国はマハラジャに統治権が委ねられていた

うえまつ先生: 1927年段階で藩王国は国土面積の45%、人口の24%を占めていた

結論

インド帝国はイギリス直轄地域と藩王国の二重構造だった

州議会はイギリス直轄地域の話で、藩王国は別の自治体制だった

江戸時代の大名制度に類似した統治構造だったとも例えられる


アクションアイテム

全員

180ページのインド独立後の状況について予習しておく

質問がある場合はフォーラムに投稿する


歴史部(2025/10/21)のサマリー

主なポイント

フランス革命の勃発から立憲君主制の成立までの流れを学習した(教科書3巻56-62ページ)

人権宣言の内容と意義について詳細に議論された

立法議会内の派閥(フイアン派、ジロンド派、ジャコバン派)の由来と特徴について説明があった

ギルドの廃止や聖職者市民法など、革命期の改革について議論された



議論されたトピック


フランス革命の勃発

教科書3巻56ページから読み始め、パリ民衆の武装蜂起について議論した。

詳細

M: バスティーユ牢獄(フランス語で「牢獄」を意味する)が民衆の攻撃対象となった。民衆の不満は英仏通商条約(イーデン条約)による国内産業の衰退、人気のあった改革者ネッケルの解任、凶作による騒乱などが原因だった。

うえまつ先生: この事件により政治の主権が国王から国民議会に移行した。

結論

バスティーユ襲撃(1789年7月14日)がフランス革命の始まりとなった

現在でもフランスではこの日を「パリ祭」として祝っている


封建的特権の廃止

封建的特権の廃止について議論した。

詳細

N: 農民反乱(大恐怖)への恐れから特権廃止が行われた。無償で廃止されたものには教会への十分の一税や領主裁判権、貴族の免税特権があった。一方、土地にかかる権利は有償廃止だったため、農民の土地所有は事実上不可能だった。

結論

封建的特権の廃止は部分的なものであり、農民の不満は残った


人権宣言

人権宣言の内容と意義について詳しく議論した。

詳細

M: 人権宣言は全17条あり、最初の6条は総括的内容。特に第2条では人間の自然権(人権)について述べている。第3条は国民主権(主権在民)の規定。第17条は所有権の不可侵性を規定している。

M: 第1条の「社会的差別は共同の利益のためにのみ設けることができる」という部分について質問した。

うえまつ先生: 「社会的差別」は「社会的区別」と訳した方が適切かもしれない。公共の利益のために必要な区別(職業的な区別など)は認められるという意味。

のぶた先生: 所有権の規定はフランス人権宣言の特徴的な部分であり、アメリカ独立宣言にはない規定である。

結論

人権宣言は近代国家の理論的基盤となる重要な文書である

所有権の不可侵性の規定はブルジョワジーの意向を反映している

フランス人権宣言はアメリカ独立宣言と比較される重要な文書である


立憲君主制の成立

1791年憲法の制定と立法議会の招集について議論した。

詳細

森下: 1791年憲法はフランス史上初の憲法で、立憲君主制を規定した。立法議会は納税額に基づく制限選挙で選出され、事実上サンキュロット(下層民衆)は政治から排除された。

西: 立法議会内には立憲君主主義者のフイアン派、穏健共和主義者のジロンド派、急進的共和主義者(後のジャコバン派)の派閥があった。

結論

フランス革命によって認められた権利は主に上層市民(ブルジョワジー)のものだった

1791年6月にはルーシャプリエ法(労働者や職人の団結を禁止する法律)も制定された


派閥の名称の由来

立法議会内の派閥の名称の由来について議論した。

詳細

N: フイアン派やジロンド派の名前の由来について質問した。

うえまつ先生: フイアン派はフイアン修道院(本部が置かれた場所)から、ジロンド派はジロンド県(構成員の出身地)から名前が取られた。ジャコバン派はジャコバン修道院から名前が取られた。

のぶた先生: 修道院の場所について質問し、フイアン修道院とジャコバン修道院はパリにあることが確認された。

結論

派閥の名称は主に地名(修道院の所在地や構成員の出身地)に由来している


ギルドの廃止

ギルドの廃止とその影響について議論した。

詳細

M: ギルドが廃止された後、そこで働いていた人々はどうなったのか質問した。

うえまつ先生: ギルドの廃止により自由競争が加速し、うまく立ち回った人と落ちぶれた人に分かれた。これがフランスの産業革命の背景の一つとなった。

結論

ギルドの廃止は自由経済の原則を確立し、フランス資本主義の発展に寄与した

革命の混乱と戦争の中で自由経済の安定はすぐには実現しなかった


聖職者市民法

聖職者市民法について議論した。

詳細

のぶた先生: 聖職者市民法は、もともとローマ教皇の下にいた聖職者たちをフランス国家の法律の下に置くものだった。これは近代国家の成立における主権の概念を示している。

結論

聖職者市民法は国家主権の確立の一環として重要な意味を持つ


ネッケルについて

ネッケルという人物について議論した。

詳細

K: ネッケルとは誰かについて質問した。

うえまつ先生: ネッケルはルイ16世の下で財政改革を主導した人物。貴族や聖職者への課税を試み、三部会において平民の代表を増やそうと働きかけた。民衆に人気があったが、貴族の反発により辞職させられた。

結論

ネッケルの解任は民衆の不満を爆発させ、フランス革命の一因となった


アクションアイテム

うえまつ先生

人権宣言における「社会的差別/区別」の具体的意味について調査し、次回の授業またはフォーラムで共有する

次回は教科書3巻62ページからの「動揺する立憲君制第一共和制の成立」について進める

のぶた先生

フォーラムシステムの移行問題について対応する(2-3週間かかる可能性あり)

次回の日本史授業(下巻76ページ)の準備をする

歴史部(2025/10/22)のサマリー

主なポイント

中国古代史、特に4~5世紀の華北地域における五胡十六国時代と北魏の歴史について学習

北魏の均田制、三長制、漢化政策などの重要な制度改革を確認

府兵制の成立背景と、それが隋唐、さらに日本の律令制度に与えた影響について議論

中国古代の船舶技術と河川交通の特徴について質問と解説

税制の変化(個人単位から家族単位への移行)について詳細な説明



議論されたトピック


五胡十六国時代と北魏による華北統一

世界史実況中継第一巻の112ページから119ページを参加者が順番に音読し、4~5世紀の中国北方地域の歴史を学習した。

詳細

O: 五胡十六国時代と前秦の苻堅による一時的統一、淝水の戦いでの敗北について読み上げ

S: 南船北馬という言葉と、華北と江南の交通手段の違いについて読み上げ

M: 北魏による華北統一と平城への遷都について読み上げ

結論

五胡十六国時代の混乱を経て、北魏が439年に華北を統一した

騎馬民族である鮮卑人が船の操作に不慣れなため、江南への進出は困難だった


北魏の均田制と税制改革

北魏の均田制(口分田制)と税制について議論が行われた。

詳細

T: 均田制の内容と、農民に土地を均等に貸し与える制度について読み上げ

O: 均田制と豪族貴族の関係について読み上げ

L: 三長制について読み上げ、戸を単位とする課税方式について説明

結論

均田制は戦乱で荒廃した土地を農民に分配し、公的権力を強化する制度

三長制により、課税単位が細かくなり、国家の統制力が強化された


北魏の漢化政策

孝文帝による漢化政策の内容と影響について学習した。

詳細

F: 鮮卑語の使用禁止、胡服の禁止、漢民族との通婚奨励などの漢化政策について読み上げ

M: 漢化政策は宮廷内での規定であり、全面的な禁止ではなかったかと質問

うえまつ先生: 宮廷内では中国語を公用語とする規定だが、それ以外では鮮卑語の使用は可能だったと説明。逆に鮮卑語を忘れる人が増え、鮮卑語を保存するための書籍が編纂されたことも補足

結論

漢化政策は少数の支配者である鮮卑人が多数の漢民族を統治するための政策

平城から洛陽への遷都も漢化政策の一環


雲岡石窟と龍門石窟

北魏時代の仏教文化について学習した。

詳細

M: 雲岡石窟のガンダーラ様式とグプタ様式の混合、龍門石窟の純中国風の仏像について読み上げ

うえまつ先生: 龍門石窟の最大の仏像のモデルは則天武后と言われていると補足

結論

雲岡石窟から龍門石窟への変化は、漢化政策の影響を反映している


北魏の分裂と六鎮の乱

北魏の東西分裂について学習した。

詳細

T: 六鎮の乱と北魏の東西分裂について読み上げ

S: 六鎮の乱は鎮圧されたのかと質問

うえまつ先生: 六鎮の乱自体は7年後に鎮圧されたが、この混乱の中で爾朱栄などの有力者が台頭し、北魏の東西分裂につながったと説明

結論

六鎮の乱は鎮圧されたが、北魏の東西分裂のきっかけとなった

その後、東魏・西魏、北斉・北周へと分裂が続いた


府兵制の成立と意義

西魏の府兵制について詳細な議論が行われた。

詳細

S: 府兵制の内容について読み上げ

L: 府兵制導入後の戦争の結果はどうなったのかと質問

うえまつ先生: 西魏と東魏の国力の差について詳細に説明。東魏の方が人口も国力も圧倒的に優勢だったが、西魏は府兵制により兵力を補い、最終的に西魏の流れを汲む北周が東魏の流れを汲む北斉に勝利したと解説

のぶた先生: 府兵制が隋唐に受け継がれ、さらに日本の律令制度にも影響を与えたことについて言及。人口が少ない西魏が苦し紛れに導入した制度が、なぜ人口の多い唐でも採用されたのかと疑問を提起

うえまつ先生: 府兵制は単なる徴兵制ではなく、国民皆兵的な制度であり、国家統制を強化する仕組みとして隋唐に継承されたと補足

結論

府兵制は西魏が国力の劣勢を補うために導入した制度

この制度は隋唐、さらに日本の大宝律令にも影響を与えた


中国古代の船舶技術

中国古代の船舶について質問と議論が行われた。

詳細

F: 江南の船がどれくらい強かったのか、日本の遣隋使・遣唐使の船と比較してどうだったのかと質問

うえまつ先生: 中国は基本的に海洋船ではなく、河川や湖を渡るための船が中心だったと説明。海を渡る必要がないため、海洋船は発展しなかった。ジャンク船のような海洋船が発展するのはもっと後の時代

のぶた先生: 白村江の戦いでの中国の大型船と日本の小型船の対比について言及。古代中国の船の復元図を共有し、竜骨のない構造が特徴的だったと補足

結論

中国古代の船は河川交通用が中心で、海洋船は発展しなかった

サンパンのような平底の船が古くから使用されていた

海洋船の発展は後の時代になってから


税制の変化(個人単位から家族単位へ)

中国古代の税制の変化について詳細な解説が行われた。

詳細

T: 調庸式について読み上げ、しょうちょう式が具体的にどのような税を取っていたのかと質問

うえまつ先生: しょうちょう式という用語自体が不明確だが、漢代は個人単位の課税だったのが、魏晋南北朝時代になると家族単位の課税に変化したと説明。西晋の戸調式、北魏の均賦制、隋唐の租庸調制は基本的に同じ仕組みで、家族単位で絹・綿・穀物などを徴収する制度だったと解説

結論

漢代は個人単位の課税、魏晋南北朝時代以降は家族単位の課税に変化

西晋の戸調式、北魏の均賦制、隋唐の租庸調制は基本的に同じ制度

この制度は日本の律令制度にも影響を与えた


アクションアイテム

うえまつ先生

次回の世界史授業で120ページ以降の江南に成立した王朝(東晋・南朝)について解説予定

のぶた先生

次回の日本史授業で下巻9ページの化政文化・対外的危機から開始予定


歴史部(2025/10/23)のサマリー

主なポイント

歴史部の授業で世界史の実況中継第二巻120-123ページ「アジア諸地域の諸国と相応」について学習した

契丹(遼)と征服王朝について詳しく議論された

中国と周辺民族の関係性、特に「家人の礼」や「歳幣」「歳賜」「歳貢」などの概念について説明があった

二重統治体制について説明があり、遊牧民と農耕民に対する異なる統治方法が解説された



議論されたトピック


出席状況と授業の進め方

授業の冒頭で出席状況の確認と授業の進め方について話し合われた。

詳細

のぶた先生: Tが来ていないこと、SとMは別の曜日に来ていることを確認した

うえまつ先生: 昨日は人数が多かったが、今日は少ないと指摘した

のぶた先生: 適切な人数について疑問を呈した

結論

少人数での授業を進めることになった

世界史の実況中継第二巻120-123ページを読み進めることになった


契丹(遼)と周辺諸国の関係

契丹(遼)と周辺諸国の関係について詳しく議論された。

詳細

うえまつ先生: 970年の唐の滅亡が東アジア・北アジア世界の大転換点だったと説明

I:契丹、朝鮮高麗、雲南大理、ベトナム李朝などの国々について読み上げた

F:契丹人の国家建国や遼の歴史について読み上げた

T: 征服王朝と二重統治体制について読み上げた

結論

契丹人は「契丹」と「遼」という二つの国号を使い分けていた

遼は中国東北地方を支配下に置き、宋との間で平和条約を結んだ

1125年に女真に攻撃されて滅び、残党は中央アジアに移動して西遼(カラキタイ)を建国した


歌人の礼と外交関係

中国と周辺諸国の外交関係、特に「家人の礼」について詳しく議論された。

詳細

T: 121ページの「家人の礼」について質問した

うえまつ先生: 第一巻140ページを参照しながら、家人の礼とは君臣関係ではなく義理の親子関係や兄弟関係を結ぶものだと説明した

のぶた先生: 日本史との関連について質問した

結論

家人の礼は強力な周辺諸国と中国の皇帝が対等に近い関係を結ぶための外交手段

公的な君臣関係ではなく、私的な家族関係を演出することで友好関係を築く方法

例えば宋の皇帝が遼の皇帝を「兄」として扱うなど


歳幣・歳賜・歳貢の違い

中国と周辺諸国間の贈り物の種類と意味について議論された。

詳細

のぶた先生: 「歳幣」の意味について質問した

うえまつ先生: 「歳幣」「歳賜」「歳貢」の違いを説明した

のぶた先生: 上下関係の表現について関心を示した

結論

歳賜:上位者(中国皇帝)から下位者(臣下)へのプレゼント

歳幣:比較的対等な関係での贈り物

歳貢:下位者(臣下)から上位者(中国皇帝)への貢ぎ物

これらの言葉の使い分けは中国の上下関係の文化において重要な意味を持つ


二重統治体制

遼の二重統治体制について詳しく議論された。

詳細

F: 二重統治体制について質問した

うえまつ先生: 遊牧民と農耕民に対する異なる統治方法を説明した

結論

遊牧民に対しては部族を単位とした「部属制」を採用

農耕民(漢民族)に対しては土地を単位とした「郡県制」を採用

二種類の住民がいたため、二重統治体制が必要だった


契丹文字の解読状況

契丹文字の解読状況について議論された。

詳細

Y: キッタン文字の解読が進んでいない理由について質問した

うえまつ先生: キッタン文字が使われなくなった歴史的経緯と、文字の複雑さについて説明した

結論

契丹文字には大字と小字があり、特に小字は複雑な構成をしている

使われなくなり、読める人が少なくなったため解読が難しい

近年、墓誌などで漢字と契丹文字を併用した資料が発見され、解読が進みつつある


カラハン朝とカラキタイの関係

カラハン朝とカラキタイの関係について議論された。

詳細

I: カラハン朝とカラキタイの関係について質問した

うえまつ先生: 地図を共有しながら、遼の残党が中央アジアに逃れてカラハン朝の領域を支配し、カラキタイ(西遼)を建国した経緯を説明した

結論

カラキタイは遼の残党が中央アジアに逃れて建国した国家

カラハン朝の領域を支配下に置いた


アクションアイテム

全員

世界史の実況中継第二巻124ページ以降(西夏と金)を次回学習する

のぶた先生

フォーラムシステムの移行対応を進める

日本史では14ページ「古墳と大和政権」から進める予定


ree


コメント


bottom of page