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執筆者の写真順大 古川

中近東各国の歴史(3)サウジアラビア(1)【青木裕司と中島浩二の世界史ch:289】



世界史参考書の超ロングセラー『青木裕司 世界史B講義の実況中継』シリーズの青木裕司先生と、福岡を中心に活動する人気タレント中島浩二さんの青木裕司と中島浩二の世界史ch」の文章版です(許可を得ています)。


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中島:

歴史を紐解けば未来が見える。大人の世界史チャンネル中島浩二です。そして河合塾のカリスマ講師、世界史の青木先生です。よろしくお願いします。


青木:

お願いします。


中島:

中東を見ているんですがサウジアラビアと。



青木:

言うまでもなく日本が一番お世話になっている国と。石油を売ってもらっている国なんです。人口が2300万人で。


中島:

あんなにでかいのにですか。


青木:

あんなにでかいのに。広さもおっしゃったように広くて210万平方キロメートル。日本の領土の6倍ちょっとかな。そこに日本の人口の1/6ぐらいですね。ほとんどは砂漠ですよね。農業ができる場所というのはほとんどない。行ったことあります?



中島:

ないです。


青木:

僕もサウジアラビアに足を踏み入れたことはないんですけど、エジプトから帰るときにサウジアラビアの上空を通っていったんです。


中島:

これはすごかったでしょう。


青木:

僕の見た風景の中で一番印象的だったですね。砂漠の色が真っ赤です。



地表の鉄分が酸化して、その真っ赤なサウジアラビアの大地と西側にある紅海、紅の海と書くけど、あれは全然紅の海じゃなくて、赤い土の向こう側にある海なんです。それを勘違いして紅い海と言っちゃったんだけど、実際には群青色なんです。出入口が狭いじゃないですか。だから塩分濃度が濃くなるらしくて、その加減で深い青い色なんです。これとサウジアラビアの砂漠の真っ赤な色って一生忘れないですね。


中島:

それだけ美しいということですね。


青木:

ただ砂漠がほとんどだったので多くの人口を養うこともできず、そんなに強い国も現れていなかったわけですよ。それを変えたのが石油だったんですね。サウジアラビアという国、どんな国か、一言で言うとサウード家というお家が支配している国。サウジアラビアの「サウジ」というのはお家の名前です。サウード家、建国が1932年なので今から90年ぐらい前ですかね。もともと遊牧生活をやっていたアラブ人をベドウィンと言いますけども、ベドウィンが部族単位で遊牧をやっていた。それをまとめあげたのがサウジアラビアの初代国王であるイブン=サウードという人です。身長が2メートル以上あって、かなりバイタリティ溢れた人だった。



中島:

いわゆるアラブ首長国連邦みたいな、そんなことが、「国として統一しちゃったよ、この人が」ということですよね。


青木:

そうそう。ある意味この人が統一できなかったペルシャ湾岸のなんとか生き延びた人たちが連邦を。彼に負けた人たちはサウジアラビアに統合されてしまったんです。しかもね武力だけじゃなくて、たとえば娘さんをもらうことによって。


中島:

婚姻関係で、血縁でどんどんあれしていく。


青木:

イスラム世界って一夫一婦制じゃないので。


中島:

戦国の日本みたいなものですよね。


青木:

奥さんが確か70人ぐらいいたのかな。多くは地域の族長の娘さんなんですよ。みんな親戚になっちゃうわけ。本当の意味でみんなサウード家になっちゃうんです。奥さんも数十人いて、男の子も89人。そのうちの50数人が王位継承権を持っていると。今はサルマン国王というかたがおられるんですけども、あのかたが第8代国王なんですが、イブン=サウードの息子さんです。



中島:

そうですか、息子?


青木:

第2代の国王、彼の次の国王から今のサルマン国王まで全部兄弟なんですよ。だからサウジアラビアって第2世代なの、まだ。ラグビーのボールみたいに兄弟でボールを渡してずっとやってきたという感じなんです。政治体制は君主制。


中島:

兄弟といってもお母さんが違ったりとか、もちろんありますよね。


青木:

そうそう。1人で80何人は厳しいですね。


中島:

先生、おもしろいなあ。


青木:

それはやっぱり厳しいですよ。異母弟というか、お母さんが違う子どもたちなんですよね。宗教はイスラム教スンナ派、いわゆる多数派ですね。多数派の中でも、スンナ派の中でもワッハーブ派と言われるグループで、これはある意味7世紀のイスラム教に一番近いイスラム教なんです。


中島:

厳格で、最近観光で行けるようになんかなりつつあるみたいなニュース、本当ですよ、去年ぐらいからそういうニュースが来てましたけど、サウジアラビアなんて観光で行けない、観光で行ってもどこを見るとか、そういうあれですよね。観光立国なんてまったく考えていなかった国ですよね。


青木:

これまではね。今はちょっと変わってきてるんですけどね。とにかく厳格なイスラム教。イスラムの原点に還る、スローガンとしては「ムハンマドに還れ」。これをよくイスラム原理主義という言い方をするんだけども、僕ら、世界史の教科書は復古主義と言うんです。本来の7世紀のイスラム教に近い形のイスラム教が本来のイスラム教である、それに戻ろうよと。実はこれをスローガンにしてサウード家というのはまわりの人たちを統率してきたという歴史があるんです。しかも領域の中にメッカとメディーナという2つの大きな聖地がある。それをサウジアラビアは守っている国だと。であるならば、イスラム教の原則を当然ながらゆるがせにしてはならないということがあるわけですね。



中島:

なんで観光客のことを言ったかといったら、そこに行ったらそういう厳しい戒律があるので、観光客がなかなか難しいんですよ。


青木:

お酒を飲むのもダメだしね、なかなか厳しいです。そのサウジアラビア、1932年に国を作った。アラビア半島のほとんどを支配した。そこにアメリカが接近してくるわけです。アメリカも中近東、やはり石油が眠っているのは間違いないと。実際にいろんなところで発見されてるんです。前々回かな、言いましたように、最初にイギリスがイランで発見したでしょ。それから20年後に隣のイラクも発見するわけ。さらに北アフリカのリビアでも発見する。どうもあのあたりには有望な油田がある。アメリカの会社がお金を出してサウジアラビアを掘削していたら1938年に出てきたわけです。

ソーカルという今のシェブロンですけども、このアメリカ系の企業が掘削をした。ところがそれで当時のサウジアラビアが潤ったかというと全然なんですよ。ひどいですよ。場所代しか払ってないんです。


中島:

たまに言いますけれども、イギリス、アメリカは本当にとんでもない感じですよね。


青木:

実際に初代国王であるイブン=サウードさんにソーカルという会社がいくら払ったか、年間500万ドル。もちろん今の貨幣価値と違うとはいっても、はっきり言います、はした金ですよ。


中島:

そうですよね、石油の利権から比べたら。


青木:

その500万ドルもできたばかりのサウジアラビアにとっては重要な現金収入だった。ただ、それによって最初からサウジアラビアが潤ってきたというのはまったく間違いらしいです。これは今のサルマン国王もおっしゃっているんです。1970年代ぐらいまでは自分のお父さんや自分の年長の兄弟たちは石油には頼らずに国づくりをしてきたと。それが変わったのが1973年の第4次中東戦争。このときにサウジアラビアをはじめとするいわゆるOPEC、OAPECの国々、アラブ石油輸出国機構ですね、OPECとOAPECが親イスラエルの国に対して石油戦略を発動する。なおかつ原油の価格を結果的に1年で4倍に上げるんです。要するに石油の値段も産油国である我々が決める、買い手であるアメリカやイギリスに決めさせない。これで立場がある意味逆転していくわけです。

いわゆるオイルマネーで中東の国々が潤い始めるのはここからなんです。1973、4年から中近東の歴史って、特に経済的にはガラッと変わっていくわけ。



中島:

オイルショックのときですよね。


青木:

日本とかアメリカみたいな先進工業国、石油で産業を発展させてきた国にはショックを受けたけども、逆に石油戦略を発動したサウジアラビアなんかはここから経済的にバーンと潤っていくわけです。

これまでにはできなかったようなことができるようになる。たとえば鉄道をガンガン敷く。


中島:

鉄道とか敷いてるんですか?砂漠って敷きにくいような気がするんですけど。


青木:

インドみたいに巡らせてはいないけども敷き始めるんです。あるいは国民的な教育レベルを上げようというので各地に学校を作っていく。

一方で、ちょうど第4次中東戦争のときにファイサル国王という人が国王だったんですけども、「俺もテレビが見たい」と。テレビ局を作ってテレビ放映を始めていく。



中島:

テレビとかもそれまでなかったんですね。


青木:

ただ、画面に人の姿が映る、これを


中島:

なるほど、偶像ってことですね。


青木:

そうなんですよ。これはアッラーが禁止なさっている偶像崇拝に近いのではないかと。メッカとメディーナを含んでいるこの国が偶像崇拝につながるようなことをやって良いのかと。で、批判が始まるわけです。


中島:

それは神様じゃないから。


青木:

神様じゃないんですけども、アッラーを描くことは禁止なんです、天使を描くことも禁止なんです、ムハンマドを描くことも禁止なんです。そこからそれが派生していって、具体的なものを描くことも


中島:

人間をということですか。


青木:

人間だけじゃなくて山や川、形あるものを形通りに描くのは偶像崇拝につながっていく、アッラーが禁止されている偶像崇拝につながっていくというので具象芸術、これが基本禁止なんです。


中島:

じゃあ絵画もないんですか?


青木:

絵画はあります。どんな絵画があるかというと、複雑な模様、いわゆるアラベスクというやつです。



中島:

絵画というよりも文様、デザインがあるという。


青木:

そうそう。そういったものに美術的才能を持った人たちは自分の才能を開化される。イスラム世界全体がすべて絵画禁止じゃないですよ。アラビアから遠くなると。


中島:

サウジアラビアは厳格なという。さっき言った観光客の話ってそういうことなんですよ。厳格すぎて観光客が行けないんですよね。


青木:

厳格だったはずのサウジアラビアでテレビが始まるというので、これはおかしいんじゃないかという批判が始まっていくわけね。そしてその批判の声を大きくしたのが1979年のイラン革命だったわけ。イランの人たちってコーランに書いてある通りの国づくりをやっていきたいと。他の中近東のイスラムの国々、「お前たち、逸脱してない?」って。「欧米風のファッションやってない?」「女性はちゃんとベールを被ってる?」「偶像崇拝につながるようなこと、あなたたちいろいろやってない?お酒飲んでない?」とか言い始めるわけ。その批判がサウジアラビアに及んでくるわけです。


中島:

国が違っても。


青木:

イスラム教徒というのはアッラーの前では平等ですからね。


中島:

国という感覚もあんまりないかもしれないなあ。


青木:

我々よりは、薄いというのは言いすぎかもしれないけど。


中島:

でも同胞なんですよね。


青木:

そうそう。神の前におけるイスラム教徒は同胞。だからどこからやってきた人もイスラム教とならば客人として迎え入れなくちゃならないというのがコーランの中に書いてありますもん。イスラム教徒のお客人は大切にせないかんと。


中島:

そこではスンナ派もシーア派もないんですね。


青木:

確かにサウジアラビアの中でも「イランの法学者たちが言っている我々に対する批判って正しいんじゃない?」と、そういう声が起こって、1979年12月にいわゆる本当のイスラム教の国を作りたいという連中がサウジアラビアで反乱を起こしたんです。メッカの聖地を占領するという時代が起こるんです。


中島:

1979年ですが、俺が中2のときにそんなことが起こっていたんですか。


青木:

1979年は大変だったんですよ。1月にイラン革命が起こって、10月、大事件ですよ、聖地メッカで占領事件が起こるなんて。


中島:

そんなところを占領するなんて。


青木:

ちなみに言うとその1週間後にソ連のアフガン侵攻が起こるんですけどね。批判されたサウジアラビアの王族の人たちは「一理あるかもしれないけども、それであんな反乱が起こる。反乱を起こさせるイランとの関係はますますやばいよね」と思うようになっていくわけです。チャイムが鳴りましたね。


中島:

次回この続きを行きます。


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