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歴史を知れば、大河ドラマの演出がもっと楽しくなる
史実と異なる演出にこそ、ドラマの面白さがあるのではないでしょうか
こんにちは のぶたです
今日は、42話「川辺の誓い」を解説していきます
川辺で涙する道長、まひろの言葉で孤独から救われるシーンは感動でした。
いよいよ最終章といった感じで、最後まで期待大です。
いよいよクライマックスに入る娍子・妍子バトル。
三条天皇とキラキラ妍子の夜の営みにも、意外な真実があります。
【娍子の立后マニアックス】
ドラマで、のっけから三条天皇が「妍子を中宮とする」と言いましたが
これは長和元年(1012年)正月3日のことです。
原作(史実)の道長はウキウキでキラキラ妍子の調度品の準備や無事立后のお祈りを始めます。
ドラマでは、時系列がアレンジされていましたが、明子の子顕信が出家したのは、このころ正月16日です。
2月14日、キラキラ妍子が中宮になります。
中宮の世話をする中宮大夫には、道綱が任じられます。
道綱は三条天皇が東宮のときに、東宮のお世話をする東宮大夫を長く務めていたので、
道長側に戻ってこれたと考えていいのでしょうか。
3月、三条天皇が「娍子を皇后とする」と言い出します。
娍子の出自的にも、状況的にも無理が過ぎることなので、ドラマの道長も困惑していました。
原作(史実)でも、道長は「もう分かった分かった、言うとおりにするわ」という態度でした。
さあ、ここから、三条天皇と道長の政治バトルがヒートアップしていきます。
ドラマでもあったように、道長側がキラキラ妍子が内裏に参内する日程を娍子立后の日にぶつけてきます。
ドラマでは俊賢が提案していましたが、原作(史実)では提案者不明です。
それに対して、ドラマでは三条天皇が「じゃあ、時間ずらそうぜ」と言いました。
原作(史実)では、この”時間ずらそうぜ作戦”のほうが俊賢の提案でした。
4月27日、いよいよ娍子が皇后となり、中宮となったキラキラ妍子が内裏に参内する日です。
この日は昨夜からの大雨でした。
道長はともかく、朝になって右大臣顕光と内大臣公季までもが娍子立后の儀を休むと言ってきます。
こまった三条天皇は、急遽ロバート実資を呼びます。
ドラマでもあったように、
ロバート実資は「天に二つの日はなく、土に二つの主はない」といって駆けつけてきます。
まあ、三条天皇が指定した時刻よりも二時間ぐらい遅れてくるのですが。
この間、三条天皇は道長側のキラキラ妍子パーティー会場にも「公卿はこっち来いや」と使者を送るのですが、
なんと使者は石を投げられたりして侮辱されて帰ってきます。
ロバート実資は、「あいつら狂ってんのか?神罰があるぞ。愚の骨頂」と激怒しています。
さて、娍子立后の儀のほうに集まった公卿は結局四人だけでした。
まず、名指しで呼ばれたロバート実資とその兄の懐平です。懐平は実資にくっついてきたと考えれば穏当なところ。
次に、娍子の弟で三条天皇の蔵人頭である通任。この人はこの場にいるほかないでしょう。
もう一人が、ドラマでもありましたが、隆家です。
三条天皇は、即位したときから、道長への対抗株として露骨に実資や隆家を引き込もうとしていたので、
その流れだと思います。 ……そんなにふらふらしているから、噂になるんですよ。隆家くん。
なお、隆家はこの日、娍子のお世話をする皇后宮大夫に任命されています。ほらね。逃げられなくなった。
娍子は兄の家にいたのですが、ここで娍子が皇后となったお祝いパーティーが開かれます。
ドラマでは、見ていてツラくなるほど空席だらけのパーティーでした。
原作(史実)でも、客が少なく勧盃、すなわち酒をついでくれる人もいないという有り様でした。
敦明親王を呼んではどうかという意見もでましたが、
敦明親王がこの惨状をみたらいろいろ察して悲しむだろうという配慮からか、結局は呼びませんでした。
これも悲しい話です。
一方で、道長側のパーティーは賑やかなものでした。
おもしろいことに、原作(史実)の道長は「今日はこなかったヤツリスト」を作成しています。
なお、この日道長の息子の教通は公任の娘と婚礼してますので、
この二人は「今日はこなかったヤツリスト」の対象とはなっていません。
ドラマでも、よく見たら公任は道長側のパーティー会場にいませんでした。
【道長の病と喜ぶ者】
道長が病に倒れたのは、6月に入るころです。
相当にキツかったのか、道長の日記『御堂関白記』は6月はまったく書かれていません。
ドラマでもあったように、このとき、五人の公卿が道長の病気を喜んでいるという噂が飛び交います。
その五人とは、実資と懐平と隆家と通任と道綱です。
通任は娍子の弟なので、しょうがありません。
実資と懐平は、娍子の立后の儀式に参加したしたからでしょう。これもしょうがありません。
道綱は三条天皇が東宮だったときに長く東宮大夫を務めていますので、やっぱりしょうがありません。
ドラマでの空気を読まない行動が相変わらず可愛かったですね。もう52歳とかなのに。。。
問題は隆家ですよ。隆家。
隆家は、ドラマでは語られませんでしたが、三条天皇の引き立てにほいほい乗って、仕事引受まくっているし、
行かなきゃいいのに娍子立后の儀に参加して、娍子の皇后宮大夫になっているしで、
どう考えても、世間に「あいつ三条天皇に乗り換えやがった」と思われる要素が揃いまくっています。
原作(史実)の道長も、隆家以外の噂は信じていないと日記に書いたり、手紙を送ったりしていますが、
隆家に関してだけは、疑っています。隆家さん、態度が中途半端ですよ。がんばれ、隆家。
【三条天皇とキラキラ妍子の夜のか・た・ら・い♡】
キラキラ妍子が中宮になって娍子が皇后となった前年、つまり二人が女御になった寛弘八年(1011年)の10月5日
キラキラ妍子が内裏に参入して、飛香舎に入ります。ここからは、三条天皇と同居ということになります。
その2日後には、三条天皇は妍子のところに語・ら・い♡に行っています。
ただ、『栄花物語』によると、
三十代後半の三条天皇は二十歳にもなってない若い妍子の取り扱いに苦労していたようです。
昔、一条天皇も若い彰子ちゃんの扱いに苦労していたようなものです。がんばれ、おじさん。
その流れの中で、次の正月にキラキラ妍子を中宮とすると言って道長を安心させて、
2ヶ月後に娍子を皇后とすると言って道長を呆れさせたのです。
さて、ドラマでは、三条天皇は妍子には通わないといって道長を脅していましたよね。
また、ドラマでは、三条天皇はあまり妍子のもとに行かなくなったとありました。
原作(史実)を確認してみると、
4月27日に娍子を皇后にしたあとは、5月3日と6日と23日に妍子に通っています。
少ないのかどうか、ビミョーなところです。
その次は、8月まで飛びます。これは少ないです。
と思ったのですが、三条天皇も6月7月はずっと病気で苦しんでいました。道長みたいに。
これでは、三条天皇は元気な夜を過ごすことはできなかったでしょう。
ということは、三条天皇は病気のせいで妍子に通えなかったという原作(史実)をもとに、
ドラマでは三条天皇が妍子に通う回数が少なかったことを、道長との駆け引きだという演出にしたということですね。
これからも大河ドラマ話や、日本史の話でもりあがっていくので
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ありがとうございました
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