【目次】
・後日譚
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歴史を知れば、大河ドラマの演出がもっと楽しくなる
史実と異なる演出にこそ、ドラマの面白さがあるのではないでしょうか
こんにちは のぶたです
今日は、40話「君を置きて」を詳しく解説していきます
ドラマでは、一条天皇は死に顔まで美しいと話題でしたが、
原作(史実)では、、、、はたしてどうだったのでしょうか。そこに注目です。
また、ドラマでは語られなかった後日譚には、原作(史実)の道長の性格がよく現れています。
【一条天皇急変す】
寛弘八年(1011年)は「三合厄」という厄災の年で、のっけから不吉にあふれた年でした。
まず正月末には、一条院内裏の御湯殿の板敷の下に死人の生首が置かれていました。
うーん、当時の嫌がらせって、すぐ死体レベルのホラーアイテムをぶっこんできますよねえ。
ドラマでもありましたが、一条天皇は即位式のときも高御座に生首を置かれてました(『大鏡』)し…
あ~、それを思い出すと、一条天皇って生首に始まり生首に終わったんですね…
考えてみれば、小学一年生程度の年齢で頂点に祭り上げられて生首ぶっこまれ…
日本のすべてを背負う頂点としての責務を負って歩み続けた最後に生首ぶっこまれ…
権力の頂点で生きる者の悲しみと孤独のすべてが象徴されているようで、泣けてきますね。
「瓦礫を投げ入れる声」って、瓦礫をぶっこんだときの「ガラガラガシャーン」的な音のことでしょうか。
それとも、瓦礫を投擲するマッチョメンの「おりゃー!」的な掛け声なんでしょうか。
まあ、前者でしょうけどね。
ともあれ、道長側にもさまざまな嫌がらせは続いていますので、
話を戻すと、瓦礫の怪異を陰陽師賀茂光栄(みつよし)に占わせたら、なんと
「一条天皇が死んで敦康親王が孤独になる予兆じゃね?この30日と6月と10月が勝負だから、
一条天皇はその間ガードを固めとけ」的な結果がでました。
そして、その日、一条天皇は病に倒れました。
道長の反応は、「最近、調子悪そうだったけど、こじらせたんかいな(これは、譲位にもっていけるぞ。しめしめ)」(『御堂関白記』)というものでした。
ドラマでも、日記に書いていましたね。
行成、実はこのころ病気でぶっ倒れていた行成のもとには、天皇は「悩乱」(『権記』)の気配だという知らせが届きました。
天皇側から最終的に伝えられた様子は、「まあ、大した事なさそう」というものでした。
いずれにしても、道長も行成も約31歳の一条天皇がこのまま崩御するとは思ってもいなかったようです。
彰子ちゃんはどう思っていたのでしょうか…
二十五日、一条天皇の調子はかなり良くなっていたのですが、
国家公務員のプロ占師陰陽師賀茂光栄じゃなくて、アマチュアの大江匡衡に占わせたのは、
たぶん一条天皇にバレたくなかったからだと思います。
一応ですが、当時のアマチュアの中では、大江匡衡は自他ともに認める占い上手で、
かつては詮子姉さんの運命を占ったことなんかもあります。
さて、大江匡衡の占いの結果は…「譲位ってレベルじゃねえぞ。こりゃ死ぬぞ」というものでした。
これには道長も意外だったようで、「マジ!? オレ、そこまでは願ってねえぞ」とでも思ったのか
あけっぴろげな縁側で「天皇が死ぬよ~」と泣き出してしまいました。
そして、これを几帳の帷のほころびから一条天皇がのぞいていたのです。
コソコソと隠れて占ってた意味無え……
あ、ドラマでは、前回に惟規が亡くなりましたが、原作(史実)だと惟規はまだ生きています。
ぜひ、前回の惟規救済動画も見てみてください。
【敦康・敦成親王の東宮立太子問題】
政局的にみれば、一条天皇にもしものことがあったときに問題となるのは、次の次の天皇です。
次の天皇は、居貞親王が三条天皇として即位するということで決定しているので問題がないのですが、
居貞親王(三条天皇)の次が…敦康親王か敦成親王かでもめるわけです。
一条天皇の気持ちでもあり、当時としてはそれなりに穏当な道筋としては、
今後の皇位継承は、次が居貞親王で、その次が敦康親王で、その次が敦明親王で、その次が敦成親王というものだったと思います。
これは、穏当と言えば穏当なのですが、道長の個人的ワガママを除いても、
敦康親王にちゃんとした後見人がいないという大問題があります。
周辺に人を集めて党派を結成していない隆家では、たとえやる気があったとしても、国政は動かせません。
じゃあ、道長視点で見てみるとどうなるか。
道長の父兼家の約61歳を基準としても、道長に残された時間はあと16年しかないし、
10年も20年も先なんて、分からないんです。待てないんです。
そこから天皇となった敦明親王が自分の系統で皇位を独占するために、自分の息子を東宮とするかもしれない。
そうでなくても、敦康親王に皇子が生まれていれば、敦明親王の次は敦成親王ではなくて敦康親王の皇子に皇位が回ってくる可能性もあるのです。
では、逆に、今敦成親王を強引に東宮としておき、居貞親王(三条天皇)がソッコーで敦成親王に譲位した未来を想像してみましょう。
天皇の外祖父としての摂政は、普通の摂政よりも遥かに力があります。
しかも、一条天皇が崩御していれば、敦成天皇(仮)に口出しする父院はおらず、
敦成天皇(仮)に口出しできるのは、母の彰子ちゃんとそのさらに父の道長だけという、
およそ考えうる限り最高の状況になるんです。
こうしてみると、道長にとっては、ほんとうに今回が勝負どころだということが分かるわけです。保留するなんてできない。
ここで勝負どころを見切る力がなければ、政局での勝利なんて望めないんです。最高権力者なんかなれない。
ドラマで、敦成親王が東宮となったときに道長が心底安堵した表情を見せたのは、本当の勝負どころで辛勝することができたからだったのです。…あ、先走りましたね。すみません。
先例とは要するに「中宮・皇后が生んだ第一皇子が東宮になるだろ!」ということです。
実は道長の時代まで、日本史上、中宮・皇后が生んだ第一皇子が東宮にならなかった例なんて、一つもないんです。
ここで活躍するのが行成です。かつて、一帝二后、
今回も、行成が一条天皇を説き伏せます。その時の理屈は四点に絞られます。
①血統とか天皇のお気持ちよりも、現実に強いケツモチ、つまり政治的なバックがいなきゃどうしようもねえだろ。
②皇位ってのは神の意思で決まるものなんで、ジタバタしたってしょうがねえよ。
③定子は昔斎宮と在原業平が密通して生まれた穢れた家系だから、神のたたりがあんべ。
④敦康親王が大事だと言うなら、カネだけ与えておけばいいんじゃね?
というものです。
うーん、②は今回のケースに当てはまるんでしょうか。ドラマでも言っていましたが…
あと、③は行成は言っていなくて、後世に付け加えられた記事という可能性もあります。在原業平の話も伝説だし。
というわけで、結局のところ、理論の中心は①の後見人の問題に収斂されるわけです。
【彰子ちゃんと道長】
ドラマでもあったように、原作(史実)の彰子も敦康親王も可愛がっていたようで、まずは敦康親王を東宮にしたいと思っていたのです。
それを知ってか知らずか、道長は一条天皇との交渉のときに彰子ちゃんの前を素通りして無視します。
ドラマでは少し場面がアレンジされていましたが、彰子ちゃんは隠すこともせず怒ります。
行成の『権記』には「后宮(きさいのみや)丞相を怨み奉り給う」とありますね。
このときが、彰子ちゃんの生涯で、一番怒りをあらわにした時なんじゃないでしょうか。
こうして、あれこれとあったのですが、結局、六月十三日に一条天皇は東宮居貞親王に譲位して
そして、一条院(元一条天皇)の症状はますます悪くなっていくのです。
【一条天皇崩御】
譲位した翌日の十四日、一条院はいよいよ危篤状態となりました。
この日、三条天皇のところに向かっていた道長は、知らせを聞いて急遽一条院のもとに駆けつけます。
一条院は道長を見て嬉しそうな気配だったそうです。
ここまで、様々なことがありましたが、二人には通じ合うこともあったのかもしれません。
翌日も病状は重く、一条院は意識不明瞭「太波事(たわごと)」を言います。どんなことを言っていたのでしょうね。
十九日、一条院は出家しました。臨終出家、つまり死を前にしての駆け込み出家です。
ドラマでは、一条天皇が死に顔まで美しいと話題でした……が、
出家のときはヒゲを剃ってから髪を剃るものですが、原作(史実)では高僧が誤って先に髪を剃ってしまいました。
ツルツル頭にヒゲ姿の一条院を見て、行成は「外道じゃー!」(『権記』)と思っています。
ここにきて、ヒドイ感想ですねえ。道長が言うならともかく、行成が、というのがまた…
「(頭ボーっとして、なんかいろいろ分かんねえ)オレって、今生きてるの?(それともあの世にいんの?)」というものでした。
なお、原文「此れは生くるか」です。
そして、彰子ちゃんも側にいる状況で、辞世の歌を詠いました。それは
「露の身の 草の宿りに 君を置きて 塵を出でぬる ことをこそ思へ」(『御堂関白記』)です。
「露の身の 風の宿りに 君を置きて 塵を出でぬる 事ぞ悲しき」(『権記』)です。
ドラマでは、最後までは詠めなかったという演出でしたが、上の句は「草」ではなく「風」でした。
どちらにしても「この世に”君”を置いて、私だけこの世を去っていくことが悲しい」といった歌です。
この世に置いていかれる「君」は、素直に解すれば彰子ちゃんのことだし、道長なんかもそう理解しています。
ドラマでもありましたね。日記の「皇后」とは定子のことなんです。
実際はどうだったのでしょうか。歴史の永遠の謎ですね。
翌日、六月二十二日、だいたい正午ぐらいに一条院は崩御しました。ドラマでは、辞世の句とともに崩御するという演出でした。
約31歳のことでした。病名は不明です。
彰子ちゃんは、約23歳で夫を亡くしたのです。
【後日譚】
一条院は火葬されるのですが、火葬後にとんでもないことを言い出した人がいました。
もちろん、われらが三郎、道長です。
道長曰く
「あ~、そう言えば、昔一条院が天皇だったころ、『朕が死んだら土葬しといてや~』とか言ってたわ」と。
マジで?? それ、忘れるか? フツー?
さらに道長は続けます。
「すっかり忘れてたわ~。今思い出した。まあ、しょうがねえか。もう燃やしちゃったしね」と。
原作(史実)の道長は…なんというか、「次」のことしか考えてないですねえ。
さあ、こうしてドラマの一条天皇編が終わりました。大きな時代の節目です。
摂政関白との協力関係を根性で保って、25年にもわたる治世をまっとうしたという光がある一方で、
強く光り、闇も深い、摂関期を代表する天皇だったといえるでしょう。
しかし、原作(史実)もドラマもまだ続きます。
これからも大河ドラマ話や、日本史の話でもりあがっていくので
ぜひ高評価とチャンネル登録をお願いします
私のブログでも、ドラマに関わる人物のかなり詳しいところまで説明しています
また、私は学生を対象とした歴史教室をオンラインで開いていますので、
日本史が好きな親戚の子や、日本史を好きになってほしい子がいたら
いっしょにOneStepの公式サイトなどをチェックしてもらえると嬉しいです
公式サイトなどのリンクは、動画の概要欄に貼ってあります
ありがとうございました
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