【目次】
藤原惟規(ふじわらののぶのり):高杉真宙
まずは、NHK公式の紹介を引用して、大河ドラマ上での設定を確認しておきましょう。

惟規は紫式部の兄とする説もありますが、大河ドラマ監修の倉本一宏氏をはじめ、弟と考える人が多いようです。ドラマでは弟となっていますね。
キャスト:高杉真宙(たかすぎまひろ)
1996年生まれの俳優です。
大河ドラマでは、『平清盛』(小兎丸役)に出演しています。
解説:実際の藤原惟規
藤原為時の長男で、紫式部の同母弟です。かつては兄という説もありましたが、今は弟説のほうが圧倒的に優勢です。
従五位下までは出世しました。為時パパと同じくらいですね。ただ、為時パパのほうが長生きしているので、為時パパより出世したと言えるかもしれません。まあ、紫式部の縁故採用なんですが。。。やっぱり、学業よりも縁故なんですね。
ドラマでも実際もぽやっとした性格なんですが、歌人としてはそこそこ優秀で、勅撰集には「後拾遺和歌集」以下に10首採用されていて、家集に「藤原惟規集」があります。
ドラマ以前の惟規
天延二年?(974年?)
惟規が生まれます。(紫式部973年誕生説をとれば、あと1~2年下ります)
天延三年?(975年?)
母(ちやは)と死別します。ドラマでは貞元二年(977年)でも生きている設定で、1話目からショックでした。
為時の三女(異母妹)が生まれます。
貞元元年(976年)
異母弟の惟通が生まれます。
1~3回:まひろ初期(977~983年)ごろの惟規
貞元二年(977年)
ドラマはこの年から始まります。勉強嫌いで、お姉ちゃん大好きっこです。
天元二年(979年)ごろ
為時パパが、「まひろが男の子だったらなあ、、、」と言ったので、その後ずっとまひろのトラウマになりました。たぶん、惟規はそんなことは綺麗サッパリと忘れていることでしょう。
天元三年(980年)
異母弟の定暹が生まれます。
4~11回:花山天皇期(984~986年)ごろの惟規
永観二年(984年)
花山天皇の御世に為時が式部丞(と蔵人)となります。
寛和二年(986年)
12回:「思いの果て」(987~989年)ごろの惟規
謎。
13回「進むべき道」・14回「星落ちてなお」(990年)ごろの惟規
謎。
15回「おごれる者たち」(993年)ごろの惟規
謎。
16~18回「岐路」(994~995年)ごろの惟規
正暦五年(994年)ごろ
まひろじゃない方の姉(長女)が死去します。
大河ドラマでは、姉の存在は大胆にオミットされました。
19~21回:長徳の変(996年)ごろの惟規
長徳二年(996年)
父為時が越前守として越前国に下向します。勉強中ということで、惟規は京に残ります。
22~26回:長徳年間(997・998年)ごろの惟規
長徳四年(998年)
春、姉の紫式部が帰ってきます。(997年帰京説:倉元・山本)
秋ごろに姉の紫式部が藤原宣孝と結婚します。
27回「宿縁の命」(999年)ごろの惟規
長保元年(999年)
姪の藤原賢子(後の大弐三位)が生まれます。
ドラマでは、惟規もいろいろと察していました。
28回「一帝二后」(1000年)ごろの惟規
長保二年(1000年)
ドラマでは、仕事から帰京した宣孝が、娘に「賢子」と名付けました。
29回「母として」(1001年)ごろの惟規
長保三年(1001年)
春に父為時が越前国から帰ってくるも、4月に宣孝が亡くなります。
ドラマでは、道長に仕える話を断った為時に怒っていましたが、実際、このあと為時は8年間も無職になります。あ、ドラマでは為時は道長邸のバイトを引き受けます。
30回「つながる言の葉」((1002~)1004年)ごろの惟規
ドラマでは、油小路通のあたりに彼女がいることが分かります。
31~34回「目覚め」(1004年後半~1007年前半)ごろの惟規
寛弘四年(1007年)
前年ぐらい(ドラマだと1005年末)から、姉のまひろ(紫式部)は宮仕えを始めています。
正月13日、約34歳の惟規がやっと蔵人となります。道長は若輩の道雅を惟規に補佐してほしいと思っていたそうです。、、、完全に人選ミスですね。
7月12日、惟規が行成の使いとして仁王経を献上します。
35回「中宮の涙」(1007年後半)ごろの惟規
このころ、斎院の中将とラブラブです。
惟規が蔵人だったとき、惟規は夜な夜な斎院の中将の部屋に通っていました。
『今昔物語集』には「『語り合おうとして』通っていた」とありますが、そんな大人の言うことを信じていた、あのころのピュアボーイのぶたは、もういません。

惟規はあいかわらずぽやっとしているので、斎院の中将の部屋に夜ば、、、ゲフンゲフン、、、おしゃべりするために入るところを、他の女房に見られてしまいました。
ドラマでは、斎院への垣根を超えるときに、もう見つかっていましたね。
他の女房は怪しんで、「オマエ誰やねん?」と詰問してきましたが、惟規は部屋の中で気配を消して(消せたつもりで)、名乗らずに黙っていました。
ドラマでは、庭先でむぎゅーっとしていました。
そこで、斎院の屋敷に仕える男衆は、斎院の屋敷の全ての門を閉じてやりました。
屋敷からトンズラこけなくなった惟規と、斎院の中将は困りました。
とうとう斎院の中将は観念して、斎院選子内親王に「実はオトコ連れ込んでて、、、」と打ち明けました。
斎院選子内親王が「ヤレヤレだぜ」と門を開けさせてやると、
惟規は「神垣は 木の丸殿に あらねども 名乗りをせねば 人とがめたり」(のぶた訳:じゃあ、名乗ってから入りゃよかったのかよ。ペッ。)と吐き捨てて帰っていきました。

(実は天智天皇の歌を踏まえたちゃんとした歌なので、)後にこの話の報告を受けた斎院選子内親王は「あ~、その天智天皇の話は私も知ってる~。わかる~」と感心しましたとさ。
ドラマでは、先に歌を聞いた斎院が惟規を開放してやったと、アレンジされていました。
36回「待ち望まれた日」(1008年)ごろの惟規
寛弘五年(1008年)
7月17日、中宮御見舞勅使となったときに酔っ払って失態します。
この前日に、懐妊した彰子ちゃんが実家の土御門殿に帰りました。
そこで、一条天皇は蔵人の惟規を勅使にして、手紙を中宮に届けさせました。完全に人選ミスですね。
手紙を届けた惟規は寝殿に通されて、そこで、アネキの間男、、、ゲフンゲフン、、、トップクラスの公卿たちから酒のもてなしを受けて酔っ払ってしまいました。
酔っ払った惟規は、立ったままお礼を言うべき場面で座ってお礼をしたので、大恥をかいたというお話です。
まあ、今で言うなら、やっと役所に就職できた下っ端公務員が、なぜか総理大臣の自宅に通されて、総理大臣や官房長官とか大臣とかから「おう、酒飲め飲め」って、強いられたわけですから、、、、まあ、「もう飲めません」とか言えないですよね。てか、リーマン処世術的には、潰れて笑ってもらうのが正解行動な気がします。
【以下、その後の惟規(ネタバレ)】
12月25日、公的な法要があって、僧侶にお礼の綿を配る役をまかせられるんですが、惟規はなぜか一人の僧侶にドサッと全員分の綿を渡します、、、「わた」なだけに!
結果、僧侶たちが綿を奪い合うことになってしまいました。ロバー実資は日記で「なにやっとんねん!」と怒っています。確かに、まったく擁護しようがない不正解行動ですね。
全員分の綿を渡されるって、どんな絵面なんでしょうかね。5人分の布団を乗せられるようなもんですかね。
12月30日、夜中に中宮殿舎あたりに盗賊が入って、二人の女房の衣装を剥ぎ取って逃走しました。紫式部は恥も捨てて大声で「殿上に兵部丞という蔵人(惟規のこと)がいるから、早く呼んでー!」と叫びました。でも、いるはずの惟規くんはどこにもいませんでした。惟規さんよう、どこ行ってたんや?中将さんか、中将さんなのか?
寛弘六年(1009年)
3月4日、為時パパが左少弁となります。
寛弘八年(1011年)
正月、六位蔵人を去り、従五位下となります。
※実際には一条天皇よりもあとに惟規が亡くなるのですが、ドラマでは惟規のほうが先に亡くなりました。
この年の秋、越後国に同行した惟規は越後の地で死去します。約37歳でした。
『今昔物語集』によると、死に臨んた惟規が高名な僧侶に出家剃髪を勧められたときの話があります。
死にかけた惟規に、僧侶が「死んだあとの世界は寂しいぞ~。出家したら死後の世界もマシになるぞ~」と言うと、
惟規は「死後の世界に松虫とかはいんの?」と聞きました。
僧侶が「なんでそんなこと聞くねん?」と聞き返すと、
惟規は「死後の世界に松虫とかがいれば、あれ松虫が~♪鳴いている~♪とか、虫の音を聞いて、死後の世界でも慰められようて(だから、出家なんてしねえよ)」と答えました。
僧侶は「ないわ~。コイツだきゃないわ~」と言って、匙を投げて逃げていきました。
しょうがないので為時パパが惟規に筆を渡すと、惟規は
「都にはオレを待っているハニーちゃん♡たちがいる。生きて都に帰っぞ!」
という死亡フラグまみれの歌を詠いました。
あんのじょう、惟規は最後の一文字を書けずに息を引き取りました。
しょうがないので為時パパが最後の一文字を書き足しました。
ドラマでも、直接には言及がありませんでしたが、惟規は最後まで歌を書けずに亡くなり、
京でまひろが見ていた辞世の句の最後の一文字だけ、あきらかに筆跡が違いました。
これは、最後の一文字だけは為時が書き足したという演出だったのです。
いいキャラしていた惟規も去ってしまいましたね。
惟規、、、さようなら。死後の世界でも松虫の声を楽しめる性格のままでいてほしいものです。
年表
では、惟規の略年表を示します。年齢は数え年です。
974年?:1歳。誕生。
975年?:2歳。母(ちやは)と死別。
994年?:21歳。姉(紫式部じゃないほう)が死去。(ドラマでは)
996年:23歳。父為時が越前守として越前国に下向。惟規は官吏登用の勉強中のため、同行せず。
1007年:34歳。正月13日、兵部丞六位蔵人。これまで小内記という下級官人だったところからの大抜擢。紫式部が前年12月29日に出仕したためか(倉本)。
7月12日、行成の使いとして、仁王経を一条天皇に献ず。
1008年:35歳。7月17日中宮御見舞勅使となるが、失態す。中宮は彰子。
1009年:36歳。雑色。
1010年:37歳。正月8日、行成の息子実経の叙爵の慶賀を一条天皇に奏る。
10月30日、蔵人所の文書を国々の衛士に遣わす。
1011年:38歳。2月、父為時に同行して、越前国に下る。病により越前国で死去。
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